読書という背徳


いいかい、必要な本とは、ぼくらをこのうえなく苦しめ痛めつける不幸のように、自分よりも愛していた人の死のように、すべての人から引き離されて森の中に追放されたときのように、自殺のように、ぼくらに作用する本のことだ。本とは、ぼくらの内の氷結した海を砕く斧でなければならない。 フランツ・カフカ

 「今や文学の権威は大きく揺らいでいる。小説が好きだというと、変人扱いされかねない。」ニューズウィーク誌のある記事の書き出しである。そして、「そんな現代のアメリカで、文学が久しぶりに脚光を浴びている」と続く。

 要は、某米出版社が作成した二十世紀英語文学ランキングを俎上に上げているのである。一位はジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」で、それ自体は順当なところだろう。僕はまだ未読であるが。

 こういう文章を書いているせいか、僕のことを読書家と思っておられる方がいるようである。たまに「文才」などという言葉を使われると、この人達はつくづく本当の文才、というものを知らないのだろうな、本を読んだことがないんだろうな、とお世話ながらかわいそうに思ったりもする。

 実際のところ、僕は「読書家」と呼べるレベルに達してはいない。前述のランキングに入った百作品の中で読破したことがあるのは、フィッツジェラルド「華麗なるギャツビー」、ジョイス「華麗なるギャツビー」「若い芸術家の肖像」、そしてケルアック「路上」だけなんだから(映画化されたものを観たのは他に幾つもありますが)。たった三作で読書家かね。

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 何故僕は本を読むのか。理由は幾つかある。それが好きだから、というは無論である。読んでいて疲労を感じるような類の本もあるが、「読む」ということが嫌いではないからそれにも耐えられる。言い換えれば、「読む」という行為から情報・知識を得るという形式が僕という行動的でなく怠惰な人間にあっているのだろう。また、読書にまつわる俗物的教養主義・権威主義が僕の中にあることも残念ながら否定できない。

 しかし、冒頭でも紹介したように、二十世紀も終わろうとしている現在、小説なんか読んでいる奴は変人扱いされかねないし、百年前ならともかく、文学なんて既に終わっている分野であると言う人も多い。僕自身そう思うこともある。

 結局は、本を読むということが僕の選択した生の形式の一部になってしまっていることに行き着いてしまう。本のない生活など僕には考えられない。ないと頭がおかしくなってしまう。それはロックを生活レベルで必要としていると同じだろう。


 現実として文学の衰退はある。しかし、本を読むことで人生を豊かにできる、情操を豊かにする、生きるための知恵を身につけてくれる、と考え、例えば子どもにマンガやコンピュータゲームなどより書物を薦める良識善導主義の親は多いだろう。

 しかし、これは間違いである。断言できる。他のメディアとの比較論は他の人に任せるとして、優れた現代文学が人間に及ぼす影響は、有害な場合が多い。

 有害というのは、良識善導主義の帰着点である幸福に対してであり、書物から何も学べないと言っているのではない。僕は書物から多くのものを得た。しかし、それらは人生の知恵や生きるのを楽にしてくれるようなお手軽に役に立つ情報ではなかった。


 僕が読書から得たもの、それを簡単にまとめることはできない。そこを敢えて乱暴にまとめると、個別化の原理だろうか。そして、その個となる自分という人間がクズである、という暗い認識である。僕は、自分がクズであると認識した人生の方が、自分をクズと認識しえない人生よりましであると信じる。しかし、だからといって前者が後者より幸福な人生とはいえない。現実問題として、後者の方が「幸福」な人生を実感できるように思える。

 そういう意味で、「バカは正しい。バカになれれば幸せになれるし、成功できる」と説く通俗人生解説書は、(成功についてはともかくとして)実は決定的に正しい。無知は罪悪であるが、不幸ではない。しかし、僕はそれでは嫌なのだ。たとえ小賢しい人間になろうとも、僕はもっと知りたいのだ。たとえ、それが生きるための毒になりうるとしても。まだ現状に充足などしたくない。


 人生の価値、それはその人が何をしたか(もしくは何をしなかったか)にかかっている。内面の苦悩だの思索などはどうでもいいことで、そんな人間心理の亡霊をロマン化するのは間違っている。それでも坂口安吾の「白痴」を読む前の自分と読んだ後の自分は違ったとはっきりいえる。読書自体は何でもない。しかし、僕はそれにより覚醒できたのだ。

 もしこの文章を読む人に小さい子どもを持つ親がおられたら、絶対にドストエフスキーや谷崎潤一郎、カフカにジャン・ジュネに魯迅、安吾や太宰治は当然のこと筒井康隆や村上龍などを読ませてはならない。ポルノ・スプラッタビデオすら前記の作家達の作品に比べたら薬になるくらいだろう。彼らの作品に感化された人間は個別化の原理を学び、自由を希求し、集団的儀式を嫌悪し、現実的功利を疑う、大変危険な人物になる可能性がある。日本のように、個への抑圧が社会の原動力になる風土を持った社会においてはそれは何よりもおぞましい結果になりかねない。


 しかし、皮肉なことに書物というものが拒否された世界像も小説の中に描かれている。フランソア・トリュフォーにより映画化もされたレイ・ブラッドベリの「華氏四五一度」である。書物が全て焚書される暗黒の管理社会の未来像である。

 そしてその社会において、書物を捨てない人々が描かれる。また一人が一冊本を暗記し、人間書物となった人々が森の中で作品を口ずさみ歩く。その姿の何と崇高で気高いことか。しかし、そうした情景を想像してみると、何やら恐ろしいさも感じずにはいられない。やはり人が本を求めるというのはある種の業なのだろうか。

 人間を人間たらしめる言語、それのみで構成される唯一の芸術形式、他の芸術形式と比して圧倒的にデジタル的でありながら、極めてアナログ的な感情移入まで許容する、人間が書物を「読む」という行為、それが人間の根源的な欲求と結びついた誇りであり業であり背徳である限り、文学という表現形態も案外しぶといのではないだろうか。


 さて、ここで一つ意地悪な種明かし。前述の「華氏四五一度」、実は僕は読んだことはない。映画版も観たことはない。単なる知ったかぶりである。僕はやはり読書家ではない。しかし、「華氏四五一度」について書くだけの情報、それもまた書物から得たのだから何とも皮肉である。これこそが読書の持つ背徳の真相なのだ。


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初出公開: 1998年10月、 最終更新日: 2005年01月22日
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