魔法と喪失(1) バンドマジックの裏側


"BETWEEN TWO APRILS I LOST TWO FRIENDS
 BETWEEN TWO APRILS MAGIC AND LOSS..."

 失恋というほど大層な話でもないが、十年以上付き合いのある女性との関係が切れようとしている。決定的な捨て台詞があったわけではないが、思えば長らく当方から声をかけることで続いてきたつながりで、私はもう彼女に連絡を取ることはないから、自然とつながりは消えることになる。それで終わり。何のドラマもない。

 特に強い愛惜を感じないのは、歳を取って感情の起伏が小さくなったからばかりではないだろう。

 タイミングが良いのかそうでないのか、ネットラジオからヴェルヴェット・アンダーグラウンドの "Pale Blue Eyes" が流れてきた。思えばこの曲をはじめて聴いておよそ20年になるが、その間ずっと一番好きなラブソングである。おそらく一生そうなのだろう。ただ、これは不倫を歌った曲なのだが。

 "Pale Blue Eyes" は、ヴェルヴェッツのサードアルバムに収録されている。彼らのアルバムで最も有名なのは、アンディ・ウォーホルのバナナのジャケットで知られ、"Heroin" や "I'm Waiting for the Man"、そしてニコが歌う3曲など有名曲揃いのファースト『The Velvet Underground & Nico』だろう。一方でパンク以降の再評価の文脈では、ノイズミュージックとしての破壊性が最も顕著なセカンド『White Light/White Heat』が最も玄人筋の評価が高いようだ。また "Sweet Jane" と "Rock & Roll" というルー・リードが現在までライブで歌い続けてきた二大代表曲が収録され、ダグ・ユールのポップセンスが活かされた4枚目の『Loaded』も捨てがたい。

 ただ私は、ジョン・ケイル脱退(解雇)後のサードアルバム『The Velvet Underground』こそが最高傑作だと思っている。その中でも "Pale Blue Eyes" は、ルー・リードの叙情性が堪能できる曲で、繰り返しになるが至高のラブソングだ。

 ふと "Pale Blue Eyes" の Wikipedia のページを調べ始める。何か手持ちぶさたになると、頭に浮かぶモノが Wikipedia で項目になっているか調べるクセがついてどれくらいになるだろう。自分が詳しいジャンルでは Wikipedia 日本語版を参考にすることはないが、英語版は日本語版よりは内容が妥当という偏見がある。この思い込みはどこまで正しいのか。

 "Pale Blue Eyes" の Wikipedia のページから引用してみる(原文はすべて本文執筆時点のもの)。

"Pale Blue Eyes" - along with a number of Reed's other songs - was inspired by his college sweetheart and muse, Shelly Albin, who indeed had pale blue eyes.

(日本語訳)"Pale Blue Eyes" は、他の多くのリードの曲と同様に、彼の大学時代の恋人にしてミューズだった Shelly Albin にインスパイアされたもので、実際彼女は淡く青い目をしていた。

 ルー・リードの長年のファンでありながら、Shelly Albin という女性のことはまったく知らなかった。恋人が創作のインスピレーションになるのは珍しくないが、この記述は少し疑わしい。それは一つは上にも書いたように、この曲が不倫を歌ったものであること、そしてリード自身による異なる証言があるからだ。以下、『ニューヨーク・ストーリー ルー・リード詩集』で、"Pale Blue Eyes" にリードが添えたコメントを引用する。

いなくなって本当に寂しい思いをした人のためにこれを書いた。彼女の目はハシバミ色だった。(43ページ)

 この曲の美しさの前では、そのモデルなどどうでもよいことだし、リードが本当のことを書いているとも限らないが、作者の証言に反すること(目の色)を一つ見つけると、このページのほかの部分も疑いの目を持ってしまう。

When deciding on a song to play for the first reunion of The Velvet Underground at the Fondation Cartier in 1990, Lou Reed initially said he wanted to play "Pale Blue Eyes", but when someone reminded him that the song was from after John Cale's tenure with the band, Reed declared "then it will have to be Heroin".[citation needed]

(日本語訳)1990年、カルティエ現代美術財団でヴェルヴェット・アンダーグラウンドがはじめて再結成して演奏する曲を決めるとき、ルー・リードははじめ "Pale Blue Eyes" を演奏したがったが、誰かがこの曲はジョン・ケイル脱退後のものであることを指摘すると、リードは「それじゃ "Heroin" をやるしかないな」と宣言した。(要出典)

 こちらは伝家の宝刀「要出典」が出ているので元から鵜呑みにしてはいけないし、ピーター・ドゲットによるルー・リードの伝記本『ルー・リード ワイルド・サイドを歩け』の以下の記述と矛盾する。

曲目に関しては、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの一般的なイメージを体現している曲――すなわち、<ヘロイン>を演奏するべきという点で、四人の意見は即座に一致した。(448ページ)

 ただ私には、Wikipedia の記述もありそうな話に思えるのだ。そして、その背後にはこれを記述した人の理解をこえる背景があったのではないかと。

 まず、確かに "Pale Blue Eyes" はケイル脱退後に発表された曲である。しかし、だからこの曲を演奏するのがおかしいということには実はならない。

 1990年(6月15日)のヴェルヴェッツの再結成は、カルティエ現代美術財団が後援するジュエ・アン・ジョザで開催された大規模なアンディ・ウォーホル回顧イベントにおいてで、そのウォーホルの死後に親交が復活したリードとケイルの二人による追悼アルバム『Songs For Drella』が演奏され、その後で4人による演奏が実現した。

 『Songs For Drella』の初演は、1989年末にブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックのオペラ・ハウスにおいてだが、4夜にわたる公演の最終日、二人にモーリン・タッカーが加わり、"Pale Blue Eyes" を演奏しているのだ。

 またこれは件の再結成の後の話だが、1990年夏に行われたルー・リードの来日公演時、一度だけ8月6日に NHK ホールで『Songs For Drella』が再演されている。以下、rockin' on 1990年10月号93ページから引用する。

 そしてこの日、アンコール・ナンバーとしてヴェルヴェット時代の”ペイル・ブルー・アイズ”が演奏された。アンコールは全く予定されてないという話だっただけに、場内は拍手喝采の嵐。しかも、完璧にルーの手によるこのナンバーを、ジョンが最後まで歌い切ったのだ。ニコ、そしてウォーホルの死を機会に、長年続いてきた2人の確執が本当に清算された事を象徴する、感動的な場面と言える。

 この日の "Pale Blue Eyes" について、確か大鷹俊一氏だったと思うが、客席の全員が涙したとか書いていた記憶がある。すごい表現だが、私はそれを大げさとは思わない。私だってその場にいれば間違いなく大泣きしていただろう。ともかく記事を読んだときは、虚無という人間性の付属品を歌う(と私は解釈している)この曲を愛する人が私以外にも多くいたのかと哀しくも嬉しくなったものだ。

 話が横道に逸れたが、このように1990年6月15日に "Pale Blue Eyes" をヴェルヴェッツで演奏することはおかしなことではないのだ。しかし……既に話は完全に妄想の領域だが、ルー・リードが最初ケイルに "Pale Blue Eyes" を提案したとき、それは確執の清算、などという美しいものではなく、やはりエゴの問題があったのではないか。この数年後に実現した再結成が、飽くまでバンマス面を貫くルーにケイルが反発して瓦解したのを考えると、その崩壊の種は実はこの時点で蒔かれていたのかもしれない。

 私の妄想はともかくとして、この1990年6月15日の再結成時に演奏した "Heroin" の映像は、YouTube でみることができる。

 この映像を初めて観たとき、最初こいつら何て下手な演奏なんだろうと笑ってしまったのを覚えている。しかし、だ。演奏が進むにつれ、もうどうしようもなく白熱してしまうのだ。

 ルー・リードのトラクターのエンジン音のようなギター、モーリン・タッカーのリズムキープになってない木魚ドラム、スターリング・モリソンの存在感の薄い三味線ギター、それにジョン・ケイルの非ロック的な変態ヴィオラの音が重なったとき、狂おしいほど凶悪で最高のロックンロールになっているのだ。確かにそこにはバンドマジックが息づいている。

 しかし、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのバンドマジックはあまりにも儚かった。

 ここで思い出すのは、件の再結成の直前、当時「ビロード革命」から間もなかったチェコスロヴァキアのヴァーツラフ・ハヴェル大統領に招かれ、プラハを訪れたときのことを書いた文章である(『ニューヨーク・ストーリー ルー・リード詩集』に収録)。

 ハヴェルとの会見を行った晩、ルーはハヴェルからクラブに招かれる。客も演奏するバンドも皆ハヴェルの仲間の反体制派だった人たちだった。

私は突然曲に聞き覚えがあることに気付いた。かれらはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌を演奏していた――私の歌の、きれいな、心に染みる、非のうちどころのない編曲だった。信じられなかった。一夜漬けの練習で出来るものではなかった。

 ハヴェルをはじめとして、そこにいる多くはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファンだったのだ。ルーはヴェルヴェッツの音楽の魂をしっかり受け継いだバンドの演奏に感動するが、その直後には以下のように書いている。

自分を落ち着かせるために舞台裏へ行き、世界共通の楽屋――狭くて寒くてむきだしで天井から裸電球が一つぶら下がっている――と呼ばれているところに入り、音合わせをしようとギターを取り出した。私のチューナーは壊れていた。チューナーの針はでたらめにチカチカするだけだった。(中略)それで私はというと、大統領だけでなくこの素晴らしい人たちのために演奏しようというのに、音合わせができないでいる。まさにヴェルヴェット・アンダーグラウンドそのものだった。

 彼の中で、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽が持つ崇高さや美に対する誇りと、大事なときに限ってトラブルや不運に巻き込まれてしまうところこそヴェルヴェッツらしいという感覚が矛盾することなく共存しているのだ。

 60年代における活動時も、90年代に入っての再結成時も、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは結局はルー・リードという人のエゴが主な原因で瓦解してしまった。今でこそ60年代を代表するロックバンドの一つに数えられるが、活動当時はその作品に見合う評価を受けられず、商業的成功にも程遠かった。ルー・リードが上に書くような認識を共存させたのも不思議ではない。

 アンディ・ウォーホル追悼アルバム『Songs For Drella』の最後の曲 "Hello It's Me" でルー・リードは、「あなたの良心を疑って悪かった。物事はすべて始まる前に終わっている気がする」とウォーホルに語りかけているが、ロックバンドはその始まりの時点で、瓦解の回路が埋め込まれているように思えてくる。

 あるいは、それは人間同士の関係性すべてにあてはまることなのかもしれない。


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初出公開: 2010年07月15日、 最終更新日: 2010年07月29日
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