2016年12月12日
ブレイディみかこ『THIS IS JAPAN――英国保育士が見た日本』(太田出版)
例によって著者に紙版を恵贈いただいたが、Kindle 版もある。
前作『ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート』は、それまでブログで公開されていた文章を中心に編まれたものだが、本書は在英の著者が、20年ぶりに1ヶ月間日本に滞在し、取材して書き下ろしされた本である。
正直に書くと、本書の帯に著者の顔写真が載っているのを見て、少しイヤな予感がした。それはこのように著者自身がタレント的、と書くと大げさだが、彼女自身がフォーカスされることで、日本人的な「最初持ち上げておいて、アラが出たらバッシング」の対象に彼女がなる予感がして、心配したのである。
本書は紛れもなく力作であり、著者の果敢さに変わりがない。現在の日本が主題となり、読んでいて耳に痛いところはこれまで以上に多い。ただ、本としての成功度は一様ではない。
キャバクラユニオンの労働争議に取材し、英国の労働運動と労働者たちの連帯の歴史が対比して語られる第一章、日本の左派が経済問題を扱いたがらない問題まで切り込みながら、著者の「一億総中流」というイズムへの怨念が炸裂する第二章、そして保育問題について、日英の相違を具体的な数字と法律の違いを示しながら実証的に語られる第三章は、著者ならではというべき内容になっている特に(第三章の禍々しいとすら言いたくなる保育の現状!)。
しかし、実際のデモなど政治運動に取材した第四章は、個人的にはピンとこなかった。これは著者の問題というより、日本における左派が、著者が全力を尽くして訴える反緊縮の重要性をどこまで理解してるのか考え込んでしまうところがある。そのあたりについて著者も、ちゃんと読めば分かる形で指摘しているのだが。それはとても重い第五章を読むとよく分かる。
日本の社会運動が「原発」「反戦」「差別」のイシューに向かいがちで経済問題をスルーするのと同じように、人権教育からも貧困問題が抜け落ちているのではないだろうか。まるでヒューマン・ライツという崇高(すうこう)な概念と汚らしい金の話を混ぜるなと言わんばかりである。が、人権は神棚に置いて拝(おが)むものではない。もっと野太いものだ。(pp.208-209)
...例えば、2015年にギリシャ債務危機が報道されたとき、欧州では緊縮財政の是非やEUが抱える問題点などがさかんに議論されていたにもかかわらず、日本の論調は「借金を返せないほうが悪い」一辺倒だった。これも日本人にとっては「借金を返せるか返せないか」が国の威厳に関わる重要事だからだろう。頑(かたく)ななほど健全財政にこだわるのもきっとそのせいだ。
日本では「アフォードできない(支払い能力のない)人々」には尊厳はない。何よりも禍々(まがまが)しいのは周囲の人々ではなく、「払えない」本人が誰よりも強くそう思っていることで、その内と外からのプレッシャーで折れる人が続出する時代の到来をリアルに予感している人々は、「希望」などというその場限りのドラッグみたいな言葉を使用できるわけがない。(p.326)
それはともかく、ワタシがもっとも著者らしさを感じたのは、エピローグにおける以下のくだりだったりする。いるよね、こういう奴。著者にはこれからもそうした意味でパンクであってほしいし、本文のはじめに書いた心配は著者には余計なものだと思うわけだが。
日本で左派を名乗る人々は、こういうことを言うことが多いことにわたしは気づいていた。
「あんなところには行くな」「そんなことはするな」「あんな連中とは関わるな」
彼らはちっともわかっていない。「するな」と言われるとわたしは猛烈にしたくなるだ。
著者の次作として予告されているモリッシー本が楽しみだが、その読書記録が書かれることはないだろうことをあらかじめ著者にお詫びしておく。
柏木亮二『フィンテック』(日経文庫)
ブログで取り上げた関係で、著者より恵贈いただいた。よってワタシが読んだのは紙版だが、Kindle 版もあるよ。
本書のタイトルになっている「フィンテック(FinTech)」という言葉については、ワタシなりに追っかけてきたつもりだが、悲しいかなワタシはお金周りの話全般が苦手で、そんなボンクラなワタシは一冊読んでおくべき本だった。
この IT を活用した金融サービス事業を指す「フィンテック」という言葉、もちろんアメリカ発のブームなわけだが、その背景となる「金融包摂(ファイナンシャル・インクルーション)」の意識、そしてリーマンショックの影響、ミレニアル世代の台頭、そしてスマートフォンとソーシャルネットワークの普及などのそのブームの必然性を解説してくれるが、アメリカの四大銀行すべてがミレニアル世代に徹底的に(歯医者以上に!)嫌われており、Google や Amazon や Apple なんかが金融サービスやってくれたほうがグッとくるというところまできていること、そしてそれを支える手足となるスマートフォンと SNS の普及、受け皿となる企業の IT システムの変化があるわけだ。
もちろん金融+IT という考え方はこれまでもあったが、「フィンテック」という言葉が取りざたされるのは、単なる金融+IT なサービスではなく、既存の金融事業にとって破壊的なサービスを提供する新興企業がいくつも登場しているからなのだ。
その上で、本書ではフィンテックの進化を、IT による金融の効率化→金融サービスの破壊的存在による分解→API による機能と情報の部品化→新たなエコシステムの元での金融サービスの再構築という四つの段階を FinTech 1.0 から 4.0 として段階的に解説してくれる。そしてその過程で、AI(人口知能)やブロックチェーンや IoT といった「フィンテック」と同じくバズワード化した言葉も、それが引き合いに出される必然性をもって語られており、そのあたり巧みである。
著者も語っているが、「フィンテック」という言葉をめぐる状況を考えると、クレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』にいきつく。上に「破壊的」という表現が何度か出てくる通り、フィンテックの代表的な新興企業は、(現在の銀行など主要プレイヤーによる堅牢だが鈍重な)金融サービスにとっての「破壊的イノベーション」の担い手なわけだ。
ただし、金融分野は他の小売事業と異なり法規制など、持続的イノベーションの提供者である既存のプレイヤー以外にも壁が明らかに存在するし、既存のプレイヤーも状況に自覚的であり、フィンテックへの集中的な投資も見られる。
ひるがえって日本はどうかという話になると、国によって既存プレイヤーの事情も利用者の事情も大きく変わるという話は本書でもちゃんと書かれており(フィンテック先進国であろうアメリカにしても、9000万人ぐらいが500ドル以下の貯金しか持ってないという記述を読むと、誤植? となるわな)、日本は遅れているといたずらに言い立てるようなことは著者はしない。ワタシ自身上にも書いたようにお金周りの話は不得手で、この手の話になると保守的になってしまうのだが、そういう人間からしても本書で語られる海外の事例を読むと、やはり危機感をもってしまうわけだがね。
2016年11月16日
増井修『ロッキング・オン天国』(イースト・プレス)
ワタシは1989年から2004年まで雑誌 rockin' on の読者で……と何度も書いてきて、ロック問はず語りなんてのもやっているが、先日帰省した際に実家の本棚を見直したら、実際には2006年くらいまでは結構な頻度で買っていたようだ。
それはともかく、ワタシがもっともこの雑誌を真剣に、まさにむさぼり読んでいた時代に編集長だった増井修が当時を回顧する本を書いたとなれば、それは買うのが責務でしょう。
のっけからボンベイ・ロールの話があったりして笑える。楽しく読ませてもらった。
実際には本書の著者が rockin' on の編集長になったのは1990年からだが、ワタシが1989年に購読し始めた時点で、編集長は彼だと思っていた。逆に言うと、ワタシは渋谷陽一が編集長として一線におり、岩谷宏がバリバリ書いていた頃を知らないことになる。同人誌マインド残る頃のロッキング・オンの逸話として、明らかにおかしな人が3人も一緒に会社に何度も来襲し、しまいには社長室の前で服毒自殺を図るというとんでもないことをやらかし、警察の聴取で「おたくが出してるのは宗教の本ですか?」と聞かれた話など100点満点なエピソードもあったりする。
著者は80年代までの rockin' on を、「ほとんど逆『ビッグ・トゥモロー』みたいな人生指南雑誌というか、極端なことを言っちゃうとたしかに宗教誌だった」と振り返るが、それを彼の編集体制の下、ガンバリズムで洋楽誌ナンバーワンの売れる雑誌にしていく過程が読めるのが本書ということになる。本書には当時の部数や利益など突っ込んだ記述があるが、現在の洋楽状況を知るものとして隔世の感があるとしか書きようがない。
ワタシも中年になり、記憶力の低下に落ち込むことが多い昨今だが、上にも書いたように、この雑誌をむさぼり読んでいた時代のことは、それがワタシが高校大学時代だったこともあり、驚くほど鮮明に思い出せるのになんともいえない気持ちになる。
本書にも、93年4月号のシュガーのインタビュー記事において、不手際で写真が欠落してしまい、ページ中央部にぽっかり空白ができてしまった話があるが、それはもちろんのこと、翌月の読者からの「その真っ白なキャンバスに自分を表現しろと解釈し、血だるまの馳浩を書いてみました!」みたいなお便りが掲載されてるのを読んで笑い転げたことまではっきり覚えていたよ。
ワタシは以前から、本格的な渋谷陽一論が書かれるべきだと思っているのだが、本書はそれに応える本ではないし、それはもちろん問題ではない。「初期衝動」は渋谷陽一の造語とか(そうだったのか!)、1990年代初頭の中村とうようとの論争、というか喧嘩時には、渋谷陽一もかなり神経質になっていて増井修にマジ切れした話、あと渋谷陽一は強烈にアルフレッド・アドラー的な思想の人という分析は興味深かった。
このように本書のことはとても楽しく読んだが、その中で著者が自身の栄光時代の頃から演繹する形で、今も活躍するロックミュージシャンについて、ぬるい湯加減な語りで論評するたびに、そのズレ加減というか、ロックに向き合う人としての著者の終わった人加減に一気に引き戻される。そうした意味で、今のワタシにはどうでもよい本だった。
2016年11月06日
オリヴァー・サックス『サックス先生、最後の言葉』(早川書房)
昨年惜しくもなくなったオリバー・サックス先生だが、本来彼の生涯の業績を辿るなら『道程:オリヴァー・サックス自伝』を読むべきところを本書を選んだのは、彼がニューヨーク・タイムズの発表し、朝日新聞に転載されたのをワタシも読んで感動した「わが人生」が本書に含まれているのを知り、本書がその死に向かう自分についてのエッセイ集であると考えたからで、値段から読みやすい程度の分量だろうと、深い考えなしに Amazon でポチっとやったわけである。
確かに読みやすい分量の本だったのだが、というか読みやすすぎる。つまり、ページ数が少なすぎる。思い切りゆったりとした文字構成の60ページぐらいの本が1500円――あまり書きたくはないが、これは詐欺的値付けではないか? 書誌情報を購入前に確かめることの重要性を再確認させてもらったよ。Kindle 版もあるが、本書の場合値段差はあまりないので、電子書籍版が特にお得ということもない。
内容的には文句はない。サックス先生の周期表への愛情が分かる「水銀」、「私の周期表」にしろ、涙なしには読めない「わが人生」にしろ、本当に心を砕いて書いたのだろうなと思わせる、著述家としてのサックス先生最後の文章に相応しい「安息日」にしろ、いずれも珠玉と呼ぶにふさわしい文章である。
ワタシ自身の事情について少し書いておけば、本書を購入したのは、著者と同年代であるワタシの両親のやがてくる死と向かい合うのに本書が何らかの助けにならないかと思ったところがあったからだ。それについて本書が助けになったかはここには書かないが、以下の感慨は彼らも思っていたもののはずだろう。今のワタシにはそれしか書けない。
この一〇年ほど、だんだんに同年輩の人たちの死を意識するようになっている。私たちの世代は去ろうとしていて、誰かが亡くなるたびに、まるで剥離(はくり)のように、自分自身の一部を引き裂かれるように感じる。私たちがこの世を去れば、私たちのような人間は誰もいなくなるのだが、そもそもほかの人と同じような人間などいないのだ。人が死んだとき、誰もその人に取って代わることはできない。埋められない穴が残る。なぜなら、ほかの誰でもないひとりの人であること、自分自身の道を見つけること、自分自身の人生を生きること、自分自身の死を迎えることは、あらゆる人間の運命――遺伝学的・神経学的運命――だからである。(31ページ)
2016年11月02日
高山知朗『治るという前提でがんになった 情報戦でがんに克つ』(幻冬舎)
SNS 経由で本書の刊行の話を知ったとき、確か以前に癌闘病記をブログでまとめ読みした方の本らしいとピンときて購入した(Kindle 版もある)。
それで本書を購入したのは、まとめ読みした闘病記のフラットな筆致が印象的だったのと、ちょうど長年お世話になっている年長の知人にシリアスな癌の告知を受けた人がおり、本書を読んでからその人にプレゼントしようと思ったからである。
もっともその知人は職業上顔が広く、癌と分かれば、ワタシがあげなくても本でもなんでももらうだろうというベンジャミンの話を聞いたのと、またその人が民間療法に一時期頼ったという話もあって、結局本はその人に渡ることなく、未だ手元にあるのだが。
本書は、40歳にして脳腫瘍、42歳にして白血病という文句なしのシリアスな癌との闘いを余儀なくされた IT 企業社長の闘病記を書籍の形にまとめたものである。
ブログをまとめ読みしたときと印象は大きく異なることなく、この人はすごいと改めて感服した(なお、現在著者は元がん患者という扱いになっている)。
いや、「すごい」とまとめられてしまったり、この人だから乗り越えられたと思われるのは著者としては不本意だろう。そうではなく、読者である我々にもその闘病から得られた知見を活かしてもらうために書かれた本だろうから。
しかし、身近で何人も癌患者を見てきて、家系的にも(それなりの年齢まで生きられれば)おそらく癌で死ぬであろうワタシ自身にしても、なかなか本書に書かれるように徹底的に調べつくして医者に意見をぶつけ、納得いく治療を受けるとはいかず、ズルズルと現状に流され、最期には少なからず医者に恨み心も残してしまうのではないかと思うし、本書の内容は日本人で患者の数が多いであろう内臓系の癌に適用できないこともあるのだが、当然ながらそれは著者の責任ではない。
基本的に著者は前向きに癌を乗り越えようと最善を尽くすのだが、ただポジティブ志向なだけではなく、そうした心性をとてもじゃないが保てないときのこと、治療の苦しさについてもちゃんと書いており、患者の周囲が心がけるべきことについての記述もあわせ、実用性を持った本であるのは間違いないし、上に情けないことを書いたが、本書を読んだ後では、いくらかは来るべき現実への処し方に変化があるはずだ。