2005年02月10日
ティプトリーJr/ル・グイン他『20世紀SF(4) 1970年代 接続された女』(河出文庫)
例によってSF初心者に重宝するシリーズの1970年代編である。
このあたりまで来ると作品の背景も60年代のカウンターカルチャー文化、そしてベトナム戦争の後に広がった空虚感など、21世紀に生きる(と書くと大仰だが)我々とも感覚的に地続きなものになる。そして、そのように「近く」なるにつれ、楽しさが増すわけでもないというのが面白いところである。本書に収録されている大方の作品が一定の水準を越えているという前提を踏まえた上で書かせてもらうが、率直に言って1950年代編、1960年代編ほど純粋に楽しめなかった。
それは、本書に収められている作品の問題意識が、現在から見れば、中途半端に古いからである。例えば、ヴァーリィの「逆行の夏」。山岸真書くところの「七十年代の”気分”を反映した苦くて切ない真実」が分かった瞬間、その仕掛け自体には少し驚いたものの、そこに透けてみえる当時(1970年代)の現実への目配りが白々しく思えた。
そうした背景が透けて見えるものよりも、ジーン・ウルフの「デス博士の島その他の物語」のような逃避としてのファンタジー、マイケル・ビショップの「情けを分かつ者たちの館」のように古い意匠を用いながら非常に真面目で内省的な作品のほうがよかった。一方で「本シリーズのハイライトをなす傑作」というティプトリーJrの「接続された女」はそこまでピンとこなかったし(つまりワタシは本書の良い読者ではないということなのだろう)、ル・グインが「アカシア種子文書の著者をめぐる考察ほか、『動物言語学会誌』からの抜粋」というのはどういうことよ。ル・グインについては、もっと直球なチョイスのほうが、ワタシのような初心者にはありがたかった。
あとジョージ・R・R・マーティンの「七たび戒めん、人を殺めるなかれと」。これは結果的に現在につながる小説になっていた。これが「七たび戒めん、人を殺めるなかれと」全体を象徴する文章でないことをお断りしておき、長いが以下引用させていただく。
ネクロルはそんな彼女を見つめ、考えた。自分と自分が訓練した六人の喪神者は、ジャエンシ全体のただひとつの希望だ――と、自分はいま、そういった。たとえそうだとしても、すこしは光明があるのか? <辛辣な語り手>と五人の喪神者は、身内に狂気を宿している。たとえライザーがレーザーを満載してやってきても、たとえこんなちっぽけなレジスタンス勢力で<天使>どもの進軍をくいとめられるとしても、たとえすべてがもくろみどおりにいったとしても、そのあとは? かりに<天使>どもが明日にでも全滅してしまったとしたら、喪神者たちはどこに居場所を見つける?