2014年08月11日
ドナルド・フェイゲン『ヒップの極意 EMINENT HIPSTERS』(DU BOOKS)
原書刊行の話を知ったとき、「自伝」と小耳に挟んだため、それに "Eminent Hipsters" とはちょっと思い上がったタイトルかもと思ったが、この時点で複数形なのに注意すべきだった。原書刊行から半年余りで刊行された本書だが、自伝ではなく、少年時代の彼を魅了したジャズや R&B、SF 小説、ラジオの深夜番組の作り手についての自伝的エッセイ集が半分ほどを占める。
ワタシは高校時代からスティーリー・ダンも彼のソロアルバムも愛聴してきた人間だが、奇しくも本書の表紙にジャケットの写真が流用されている『Morph the Cat』以降は、彼の作る音にスリルを感じなくなったというのが正直なところだが、彼の作品を愛した記憶はそう簡単に色あせない。
特に本書の前半部の内容は、自分でもどうしてこんなに好きなのか分からないくらい好きな彼の初ソロ作『The Nightfly』の1950年代後半から1960年代初めの郊外暮らしをテーマとする詞世界につながる(正確にはその後1960年代末まで入るのだが、そこで彼の音楽における相棒ウォルター・ベッカーとの出会いがあるわけだが)。
お読みになればおわかりのように、この本の章の多くは、子どものころ、わたしの人生と交わってきた人物や物事を取り上げている。あらかじめ謝っておこう――わたしだって成長したい気持ちはやまやまだったのだ。嘘じゃない。だが思ったようにはならなかった。たぶんわたしはいまだに青春時代のほうが、今現在やその間の半世紀よりも、リアルに感じられてしまう人種のひとりなのだろう。でもそのどこが悪い?(pp.7-8)
本書の SF についての章でフィリップ・K・ディックの「父さんもどき」の名前が(当時のアメリカの郊外生活とパラノイアの象徴として)引き合いに出されるが、この短編を含む『20世紀SF(2) 1950年代 初めの終わり』について、こんな面白いものを読んでたら読者の人生は確実に変わっただろうとワタシは書いたが、フェイゲンもその一人だったわけだ。
しかし、さすがはフェイゲンと言うべきか、本書は彼の青春時代を彩った人物や物事を扱っているのは確かだが、ただノスタルジーに浸ることはせず、"Eminent Hipsters" がヒップでなくなる瞬間もちゃんと書いている。
フェイゲンの文章はなかなか癖があるのは知っていたので、本書の翻訳は大変だったろうなと思っていたが、案の定本書を読んでいてよく意味が取れないところも少しあり、これはワタシの教養の乏しさが原因だろう。しかしフェイゲンも、かの巨匠エンリコ・モリコーネへのインタビューで、頭でっかちの音楽ライターのような暴走をやらかしてモリコーネに肩をすくめられているが、これはギャグとしてそのまま入れたのだろうか。
さて、本書の後半部は一昨年彼がマイケル・マクドナルド、ボズ・スキャッグズと組んだ Dukes of September Rhythm Revue のツアー日記になる。個人的には本書の前半部の内容で一冊作ってほしかったし、なんだったら彼が創作上の低迷期だった80年代に雑誌に寄稿した映画音楽についての文章などを焼きなおしてもらってもよかったのだが、ツアー日記が面白くないといいたいわけではない。むしろ対象が現在となり、スティーリー・ダンでやるときのような余裕がなく必然的に過酷なツアー生活になったため辛辣さを増した文章は、フェイゲンその人の現在も反映している(自分たちの現在の仕事を「老人介護」とまで書いている!)。
彼のマネージャーがこの業界における大立者であるアーヴィング・エイゾフだったのは知らなかった。今ではセミリタイア状態らしいが、ツアーの過酷さを愚痴るフェイゲンのメールに対して、ゴミためでライブをやりたくないならスティーリー・ダンでツアーしろ、デュークスとしてのお前らには何の実績もなく、出し惜しみ(=プロモーションへの非協力的態度)をしている限り、ゴミためでライブやってもらう、とキッパリ言い返すところ、ショービズの本場の厳しさが垣間見られる。
そうそう、ツアーの途中で日本のプロモーター「無敵のミスター有働」から来日のオファーがあるのだが、それを受けて、フェイゲンは日本人について以下のように記している。
せいぜい1週間くらいだろう。そうだとありがたい。日本ではけっこうキツい思いをさせられるからだ。なによりもまず、西洋人にとって、あそこは火星の遊園地のように見える場所だ。(中略)くわえてアメリカ人のミュージシャンは、殺人的な時差ボケ――昼と夜が入れ替わる――と、根本的に異なる文化とのコミュニケーションに苦しむ羽目になる。
(中略)
これもやはり島国ならではの問題だし、イギリスの文化と共通する点も多々あるが、それにしても日本は極端だ。おそろしく堅苦しい礼儀作法、とりわけ外国人と接する際のそれは、多くの誤解を生み出している。(中略)
そういうことだ。どうやらあの国には「ノー」という概念を表現できる言葉がないらしく、(中略)みんなほぼどんなことについても、嘘をつくしかなくなってしまう。(中略)あらゆる種類の曖昧な表現に激しいアレルギー反応をしめすわたしの妻などは、もう二度とあの国には行けないだろう。わたしは1週間ぐらいなら、あぶく銭のために我慢できそうだが。(pp.195-196)
この来日公演はその年の秋に実現したが、行きそびれたのが悔やまれてならない。
本書(の前半部)を読んでしまうと、冨田ラボの『ナイトフライ』の音について書いた本も読まなければならない気持ちになったので、いずれこちらについても読書記録を書きたい。