2016年09月04日
大川慎太郎『不屈の棋士』(講談社現代新書)
発売とともに買い読んだ本だが(Kindle 版でなく新書を買った)、読んで重苦しい心地になった。しかし、現代将棋を考える上で、本書の内容を避けて通るわけにはいかない。そういう本である。
本書は、最近では AI(人工知能)の成果の一つにもされることが多いコンピュータ将棋について、羽生善治と渡辺明という当代最強の棋士をはじめとして、現役の棋士にインタビューしたものである。
それで一冊の本になるのは、言うまでもなくコンピュータ将棋がプロの将棋棋士を実力的に上回ったとされるからだが、ワタシは2013年に『大山康晴の晩節』の解説で、以下のように書いている。
今年行われた第二回将棋電王戦は、人間側から見て一勝三敗一引分という結果に終わった。この結果をもって将棋においてコンピュータが人間を越えたと見なすのは早計に違いないが、コンピュータ将棋がトップレベルのプロ棋士と競えるところまできたこと、そして極端に遠くない未来に人間を凌駕する日が来るのは認めざるをえないだろう。
その日にいたるまで、そしてその後も人間の将棋とコンピュータ将棋は共存共栄してほしいし、それは日本将棋連盟会長のまま鬼籍に入った米長邦雄が将棋界に遺した宿題であろう。ただ「その日」が来たとき、プロ将棋の受容のあり方が変わるように思うのである。具体的には、古い情報と見なされていた昭和の人間臭い将棋にもう一度光があたる日がくるのではないか。
この文章を書いているとき、上の段落に関してかなり言葉を慎重に選んだのを覚えている(おそらく本書の著者も、同じように本書のためのインタビューにおいて、言葉を慎重に選ぶところが多かったに違いない)。しかし、下の段落で書いた「その日にいたるまで、そしてその後も人間の将棋とコンピュータ将棋は共存共栄してほしい」というのがいかにムシのよい言い草かというのを痛感し、本書を読んでワタシは頭を垂れた。
本書はまず上にも書いた通り、羽生善治と渡辺明という本文執筆時点で(全部で7つのうち)5つのタイトルを分け合う現役最強の棋士二人のインタビューが収録されているが、流水のように淀みがなく、一方で分からないことは分からないと率直に答える羽生さんにしろ、それよりももう少し気の強さとぶっちゃけ感を見せながらもそれが単なる強がりになってない渡辺さんにしろ、本当にこの二人が現在のトップで良かったと思えてくる。
ワタシは、一番好きな棋士は誰かと問われると未だに米長邦雄な人間だったりするのだが、それでも羽生善治はほぼ同世代というのもあり特別な存在だし、大げさに言えば現代将棋の聖性を体現する人である。1996年の『将棋年鑑』における棋士アンケート「コンピュータがプロ棋士を負かす日は? 来るとしたらいつ」に対し、それこそ米長邦雄などそういう日は来ないという回答も多かった中で、羽生善治が「2015年」とだいたい正確に当てた話は有名である。もっとも本人は適当に書いただけとのことだが、それすらも羽生の預言に思えるくらいの存在なわけだ。
そうした意味で、人間がソフトから将棋を学べる期間は意外と短いのではないかという羽生の意見は注目すべきで、以下の彼の発言は、ワタシが少し前に書いた危惧に対応しているところがあると思う。
学ぶことは結局、プロセスが見えないとわからないのです。問題があって、過程があって、答えがある。ただ答えだけ出されても、過程が見えないと本質的な部分はわからない。だからソフトがドンドン強くなって、すごい答えを出す。でもプロセスがわからないと学びようがないという気がするのです。(54ページ)
人間がコンピュータ将棋から学べるところがはっきりし、また両者を比較することが、それこそ人間と車で100メートル走を競わせるようなことだという認識が広まればよいのだろうが、その過渡期に居合わせたプロ棋士からすれば、自らの存在意義と生活基盤すら危うくする存在に関わる問題である。
本書においても、ソフトの貸し出し、ソフト側のレギュレーション、そして日本将棋連盟のプロ棋士とソフトの公開対決を禁じる方針など、あれはああすべきでなかったといった話がいくつか出てくる。正直、ワタシにはそれぞれについて、どうすれば現状より良かったかというのは分からない。それでも将棋の世界における手順前後、ちょっとしたボタンのかけ違えが、プロ棋士に対する世間の認識に大きな影響を与えかねないのは分かる。
羽生善治さんが今将棋ソフトに負けても名声は傷つかないという意見もある。その通りかもしれない。でも、本書で勝又清和六段が言うように、「羽生さんがいきなり負けるのは見たくない」という気持ちは、未だワタシの中にもはっきりある。それを本書を読んで再確認した。
ワタシ自身は、本書のインタビューイで言うと、羽生世代の人たちよりは少し下で、行方尚史八段と同い年である。コンピュータ将棋がまったく箸にも棒にもかからないところから知っているからこそ、理屈ではその進歩を認めつつも、上記のように羽生さんがソフトに負けるのを見たくないと思う気持ちがどうしても先立ってしまう。
ワタシはコンピュータ同士の将棋対戦を見て楽しいと思わない。これはここに書くべきことではないが、その発言に嫌悪と軽蔑の感情を催すコンピュータ将棋ソフト開発者も少数いる。自分が見たいのは、結局は人間の戦いなのである。棋士で言えば、本書にもあるようにアラフォーになってステージをあげてきた行方尚史八段や、(本文執筆時点で)王位戦で羽生さんを追い詰め、悲願の初タイトルにあと一歩に迫っている木村一基八段といったワタシと同い年の戦いぶりに感銘を受けるし、力づけられるものがある。そのような文脈を与えうるのは人間だけ、では必ずしもないかもしれないが、人間であるワタシ自身にとっては少なくともそうなのだ。
一方で、本書を読んでいて、「私よりソフトの方がずっと強い可能性があるんです」という千田翔太五段の発言にははっとさせられた。将棋を始めて以来、その時代の最強ソフトの方が、その人よりもずっと強かった棋士もいるというのは、言われてみれば確かにありうる話で、少なくともこれから棋士になる人たちは、「コンピュータ将棋ネイティヴ世代」ともいえるわけだ。それは感覚が違っていて当然である。
本書を読むと、将棋の勉強法についてもソフトによりパラダイムシフトが起きているのが伝わるが、問題なのは、ソフトが使える棋士とそうでない棋士が生まれることで、(かつての棋譜データベースなどの整備時よりも顕著に)勝負の平等性が危うくなっている現状がある。
それについては山崎隆之八段が詳しく語っているが、その語り口ははっきり暗く、山崎さんらしい自虐も相まって、河口俊彦老師がかつて書いていた、棋士独特の被害者意識を思い出したりした。
僕は将棋界のそういう平等なところがおもしろいというか素敵だなと思っていたので、変わっていくのが本当に寂しい。電王戦の出場者を決める際に、執行部から声をかけられた一部の幹部候補生だけが優遇されているわけでしょう。それって世間的には普通のことで、将棋界も近づいただけなのかもしれませんけどね。ソフトが登場したことによって、僕がいいなと思っていいる将棋界の枠組みに将棋連盟が価値を置いていないことがよくわかった。僕は少数派だったんだな、と。(173ページ)
山崎隆之は、第3章「コンピュータに敗れた棋士の告白」に収録されているが、インタビューは第1期電王戦の前に行われたもので、この章に彼を配するのははっきりいって無礼だと思うのだが、それも気にならないくらいの暗さにプロ棋士側がソフトによって受けた「傷」をどうしても感じてしまうのである。
彼は自分にはコンピュータソフトを使いこなすのは無理だし、その導入には周りに好かれる人間力も必要なんだろうとまたひとしきり自虐が入るのだが、結局やりたくないのだろう。ワタシはそれはそれでよいと思う。そのあたりについての心理を本書でも行方尚史のように率直に語っている人もいる。
しかし、そんな山崎隆之が第1期叡王戦に優勝し、第1期電王戦で ponanza と戦い、完敗することになったのは、なんという運命のめぐり合わせかと思わずにはいられない(本書には、「あとがき」に電王戦後の山崎さんのインタビューも収録されている)。
本書を読むと、当然ながら若手のほうがやはりコンピュータ将棋について、それを勉強に取り入れる功罪まで見えている発言が多いように思ったが、糸谷哲郎八段をはじめとして、将棋の普及活動に力を入れる若手棋士が多いようなのは間違いなく好ましいことだし、そういう地道なところから人間はやっていくしかないのだろう。