2005年02月14日
Paul Graham『ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち』(オーム社)
本書に収録されたポール・グレアムのエッセイの翻訳は、訳者(クレジット上は「監訳者」であるが、この言葉にあまり良い印象がなく、また当人自身サポートページにおいて「私にもわかりません」と語っているくらいなので本文では断固「訳者」と書かせていただく)である川合史朗さんのサイトでこれまでほとんど読んでおり、改めて本で読んでも発見はないかもと思っていたが、それは間違いだった。
本書はポール・グレアムというハッカーにより書かれた大変面白く、同時に挑発的な本である。著者が言うように「知的な西部劇」になっているかは疑問だが、いみじくも訳者が指摘するように、著者の文章が「明解な主張、分かりやすい言葉、そして素晴らしいリズム」に最適化されているのは確かだ。
ワタシは、その文章の心地よさとハッカーらしいユーモア(例えば本書でも、マイクロソフトのPR事務所からビル・ゲイツの写真使用を拒否された際の対応にそれが出ている。しかし、この写真は以前にも見たことがあったが、本物だとは思わなかった)を多いに楽しんだ一方で、これまたハッカーの美徳である「容赦のなさ」、つまりは厳しい審査眼を甘くみていたことを本書を読んで思い当たった。ユーモアと容赦のなさが本書の基調をなしている。
本書が素晴らしいのは、何より読者に勇気を与えてくれるところだ。それはある人にとっては何か行動を起こす契機かもしれない。他の人は本書に「見かけの無秩序の下にある秩序」を見出すかもしれない。そのような力を持った本は少ない。ワタシは、できるだけ若い人達、これから社会に出る大学生、高校生に本書を読んでほしいと思う。情報系の学生は当然として、理系でない人達にとっても、読み飛ばさざるをえない章を差し引いても読む価値のある本であることはワタシが保証する。
オライリーから刊行された原書と比較し、その邦訳である本書には、第0章「メイド・イン・USA」と第16章「素晴らしきハッカー」(と日本語版への序文)が追加されているが、単に分量が増えたというだけでなく、いずれも本書の内容を分かりやすくする役割を果たしている。
第0章「メイド・イン・USA」は、ハックのアメリカ性について語りながら、「センス」「デザイン」「郊外都市」など他の章に登場する言葉をちりばめた、それらへのつながりがよく分かる文章だし、また「素晴らしきハッカー」は、原書刊行後のリアクションに触れることで、誤解を受けやすいところ、簡単にいえばその「政治的な正しくなさ」についての弁明になっている。
本書は雑多に著者のエッセイを並べたようでありながら、各章はキーワードとなる言葉を反復しながら呼応している。第0章を読めばそのあたりがよく分かるだろう。正確に書けば、前半の章は最後の数章のために地ならしをしているわけだが、その部分を楽しめる人が限られるのはまあ仕方がない。
また本書は丁寧に編集されている印象を受けた。強いて不満を述べるなら、訳注に少し貧弱さを感じるところか。ノーバート・ウィーナーとジョン・ナッシュについて両方とも「米国の数学者」というだけの訳注にどれだけ意味があるのか疑問である。
それでは引用を交えながら各章を見ていこう。
第1章の「どうしてオタクはもてないか」は、blog.net に訳文が公開されたときから本当に大好きな文章で、ワタシが本書を若い人に読んでほしいと書くのは、これが最初に置かれているという構成もある(HotWired に載ったボンクラな書評はそのあたりが少しも分かっていない)。ただし、
自分たちのいる状況を理解するだけでも、苦痛を和らげることになるはずだ。オタクは負け組じゃない。単に違うゲームをやっているだけなんだ。それも、実社会により近いゲームを。大人もこれを知っている。現在成功している大人で、中学高校でオタクじゃなかったと言い切れる人は滅多にいない。(21ページ)
という文章はとても素敵なのだが、訳者も指摘する「オタク」と「nerd」の違いを区別する必要があるなとも思った。
第2章「ハッカーと画家」は、各章につながるエッセンスを含んでいる。だからこそ本書の題名にもなっているのだが、第9章「ものつくりのセンス」へのつながりは自明として、他にも例えば、
私の知る限り、私が大学で教わったプログラミングのやり方は全部間違っていた。作家や画家や建築家が創りながら作品を理解してゆくのと同じで、プログラマはプログラムを書きながら理解してゆくべきなんだ。(26-27ページ)
という言葉の実践編が、第5章「もうひとつの未来への道」と言える。この「もうひとつの未来への道」については、まつもとゆきひろさんも指摘するように、ワタシもはてなのサービスのことを想起した。ただ注釈などでその重要性が補足されているとはいえ、セキュリティについての議論は現在の目から見ればいささか楽観的なように思え、それははてなに対して感じる不安と同じだったりする。
本書が挑発的なところは、Lisp 最強の主張のほかに、「政治的な正しくない」部分である。それは第3章「口にだせないこと」において婉曲的に、いささかもってまわった調子で概論が述べられ、第4章「天邪鬼の価値」ではハッカー的価値観と行動論理、第6章「富の創りかた」、第7章「格差を考える」では、「素晴らしきハッカー」において著者自身「最も論議を呼ぶアイディア」だったと書く「富の格差」の問題が語られる。
「天邪鬼の価値」を読み、山形浩生の「Hackについて」を思いだしたのはワタシだけではないだろう。
米国的なもの、というのがある。外国に住むとそれがよく分かる。その米国的な何かがこの性質を育てるか潰すかを知りたければ、ハッカー以上のフォーカスグループはない。ハッカーたちは、私の知るどんな集団よりも、米国的なものを内包しているからだ。(60ページ)
「Hackについて」を読んでいるのでこうした言い方も納得はできるが、しかしそれでは日本人である我々はどうなんだと思うのも確かである。日本のオープンソースコミュニティが抱える問題についていろいろ言われたが、ハッカー倫理の問題とあわせて今後検証が必要だろう。
さて本書で最も論議を呼んだ「富の格差は広く思われているほどには大きな問題ではない」という部分だが、ワタシはやはり著者の議論には穴があると思う。身近な例を挙げるならリーナス・トーバルズ、彼は明らかに自身の富を最大化する生き方はしていない。それが偉いとか、倫理的だとか、逆に愚かだと言いたいのではない。そういう評価ではなく、現実の話だ。そして彼がそうした主義をとることで、Linux の開発がうまくいっている(少なくとも富を最大化する生き方をするよりも)ところがあるのは間違いない。リーナスはいささか特殊な例かもしれないが、それに近い優先順位の付け方をしているハッカーは多いはずだ。本書はハッカーによるハッカーの世界を描く本であることを考えると、著者の議論はどうも腑に落ちない。
もっともこうした反論は予想の範疇だろう。「富の創りかた」には、「良いプログラマの多くがリバタリアンである」とあり、また謝辞で「ハッキングについて書く見本を示してくれた」と特別な感謝を捧げられているエリック・レイモンドが、Slashdot のブックレビューに「ポールは僕同様リバータリアンだよ」とコメントしているのもポイントか。
第10章「プログラミング言語入門」以降が本書の本領なのだろうが、前述の通り章によっては読者を限定してしまうところはある。書き忘れていたが、本書には巻末に用語解説がついており、一応参考になる。もっとも、そこでも「Ada」の解説に「いろいろな意味で予想通りのものになった」というユーモアを忍び込ませ、「分岐」の解説を「機械語におけるgoto文」という一文で済ませるなど、著者らしさが出ているのだが。
第12章「普通のやつらの上を行け」は、訳者がはじめて訳したポール・グレアムのエッセイ、つまりはワタシがはじめて読んだ著者の文章であり大変思い出深い文章なのだが、当時はとにかく彼が起業したベンチャー Viaweb についての記述がすこぶる面白く、その成功物語として読んでいたため、後半強調される、
Lispは、信者のみが見える魔法の特性があるから素晴らしいんじゃない。単に、今ある言語のなかで最もパワフルだからだ。(178ページ)
という Lisp 最強説と高級言語の力の差の話を著者が期待するほどには真剣に読んでないことに今回再読して気付いた。最近の言語はどれも Lisp の遺伝子を持つようになったという説も含め、ワタシがどうしても真面目に読めないのは、大学のとき Scheme の実習を落第しかけた過去への負い目があるのかもしれない(笑)
それはさておき、第11章「百年の言語」における、
良い無駄と悪い無駄があるってことだ。私は良い無駄のほうに関心がある。贅沢に使うことで、より単純なデザインが得られるような無駄だ。
というのは、まさしく富豪的プログラミングの思想を簡潔な言葉で言い表していないか。
このように本書はいろいろな連想が働く本なのだ。
さて、本書の美点について書くのに、川合史朗さんによる翻訳に触れないわけにはいかない。上で訳者が書いた、原著者の文章の美点を引用したが、本書においてそれはほぼ完全な形で日本語に置きかえられていると思う。川合さんは Scheme 処理系 Gauche の作者であり……といった情報は今更書くまでもないと思うが、結果的に本書が最適な訳者を得た幸運を思わずにはいられない。
ワタシが川合さんのことを知ったのは、「管理職のためのハッカー FAQ」についてメールをいただいたときだった。当方の拙い訳を川合さんにかなり直していただいたわけだが、それを契機に川合さんのサイトを読むようになりもう五年以上経っているのだな。
ワタシはこれまで「捨て石になるのは嫌だが、踏み石なら喜んでなる」をモットーにしてきた。「監訳者あとがき」に書かれるように、当方の仕事が、本書が成立するまでにほんのわずかでも踏み石の役割を果たしたのなら、それはこの上ない悦びである。