2014年11月16日
ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる: ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』(草思社)
原書をブログで紹介するなど本書の著者であるダナ・ボイドについて時々取り上げた関係で草思社の編集者に献本いただいた。
本書は、SNS 研究、特に10代の若者の SNS 利用についての研究の第一人者である著者が出会ったティーンの経験と視点を映し出すために書いた本である。ただ、読者として彼らの親世代を強く意識した本であり、それは「なぜ、若者はネットでよからぬことをしているように見えるのか」など各章のタイトルに添えられた副題を見ても明らかである。その筆致は、ティーンについて何かを決めつけたり、結論ありきでそれに証言をあてはめる感じがなく、ある意味むやみにソーシャルメディアを恐れたり子供たちの利用に介入したがる親世代をなだめ、諭す本とも言える。
前半で繰り返し書かれるのは、今のティーンがテクノロジーを介して友達とつながろうとするのは、今では外の現実空間でそうした友達とぶらついたり、たむろったりすることが難しくなっているというアメリカの現実がある。ショッピングモールからすらティーンが排除されているという話は驚きだったが、ティーンの基本的な心性というか求めるものに変わりはないのである。
スカイラーが言おうとしていたのは、極めて単純に、人が社会的にどう受け取られるかは、「クールな」場所で仲間と交流する能力にかかっているということだった。ティーンの集団はそれぞれに、様々な空間を「ここがクールだ」と判断している。それはかつてはショッピングモールだったが、しかしこの本で論じられる若者たちにとっては、フェイスブックやツイッターやインスタグラム[Instagram]といったSNSサイトこそが「クールな場所」なのだ。(14ページ)
個人的に本書で特に面白いと思ったのは、1章「アイデンティティー」、2章「プライバシー」、6章「不平等」、7章「リテラシー」である。
前半で語られる、彼らのネット利用の感覚にワタシは必ずしも肯定的ではなくて、例えば、自分たちは飽くまで友達の閲覧しか想定していないというのは感覚は理解できるにしろ、それこそ日本におけるバカッター騒動につながる危険性があるので、なんだかなと読んでて思うところもあったが、今のティーンはネットでなんでも晒しているように見えて、実はそれは逆説的にプライバシーを守るためなのだという話はなるほどと思ったし、彼らなりの「裏をかき方」はいろいろ面白かった。
内容としてはシビアな内容を含む後半も、質問応答サービスで匿名で投げつけられる意地悪で残酷な質問が利用者のティーンを傷つけ、いじめにつながっているのではという話を受け、運営会社が調べたところ、「匿名の」質問の多くは、それに応えているアカウントと同一の IP アドレスのユーザによって書かれていたという話(これが意味するところは分かりますよね?)や、かつて平等をもたらす偉大な力になると期待されたインターネットが、人種差別や社会的階層化や格差をもたらすという苦めの話が興味深かった。
インターネットを通して得られる情報のアクセスだけでは、既存の構造的格差と社会的分断に取り組むには不十分だ。インターネットはそのままで世界をいまより平等にするわけではないし、今日の若者たちを自動的に寛容な世界へと案内するわけでもない。それどころか、そこには現存する強固な社会の分断が、むき出しのままで横たわっているのだ。(285ページ)
本書は帯にもあるように「デジタルネイティブは幻想だ」と断じている。その意味については本書を読んでいただくとして、この言葉を広めた John Palfrey と Urs Gasser の『Born Digital』は、デジタルネイティブという概念を再生させ、もっと正確なものにすべきと論じた本なのに、メディア(日本では NHK も含まれますね)は今のすべての子供たちがデジタルネイティブである「証拠」として彼らの仕事を引用し続けたという話は、ワタシを含めちゃんと『Born Digital』が読まれてなかったからで、いささか申し訳ない気持ちになった。