2005年12月20日
羽生善治『決断力』(角川oneテーマ21)
いまさらながらであるが、読んでみた。
将棋棋士の書いた本がネットで話題になることは少ないが、本書は梅田望夫氏が取り上げたあたりを契機として、ブログ界隈で概ね好評に読まれ、また ARTIFACT における「ネットによっていきなり世界統一ランキングに放り込まれると努力するモチベーションを持ちにくくなる」といったネット時代に引き寄せた読み方もされた本である。基本的に難しいところのない、短時間で読了でき、ビジネスや個人のモチベーション全般の話に広げて読むことのできたのでこれだけ売れたのだろう。
考えてみれば、羽生の同時代人の愛棋家として恥ずかしいことに、彼の単独著作を購入するのははじめてだった。しかし、こうして読むと羽生の文章には他で読んだ単発的な文章とぶれがないというか一貫しているという印象を持った。
また、将棋は伝統文化でもあるので、かつては、将棋は人間の総合力を集結した、道に近いものという考え方が主流だった。(中略)しかし、将棋は厳然と勝ち負けの結果が出る。「道」や「芸」の世界に走ると言い逃れが出来る。だが、それは甘えだ。(159ページ)
この考え方が、現在では棋士の規範になっているわけだが、その羽生にしてもおよそ20年前のプロデビュー以来、常に多く勝ちまくり続けながら現在に至ったようでいて、意識的に将棋を変化、進歩させた時期があったというのは実は大半の棋士も気付かなかったことではないか。だからこそ今も勝てるわけだが、その羽生も現在は、
以前、私は、才能は一瞬のきらめきだと思っていた。しかし今は、十年とか二十年、三十年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。(170ページ)
という認識に至っている。この言葉に勇気付けられる人は多いだろう。しかし、忘れてはいけない。羽生は以下のようにも書いている。
つまり、過去にどれだけ勉強したかではなく、最先端の将棋を、どれだけ勉強したかが重要なのだ。(135ページ)
当たり前だが、ただ続けていれば肯定されるというものでもない。その「対象の鮮度」も重要なのだ。そしてこれもまた特に技術者が読むと説得力がある話だろう。
本書は上述の通り普遍的な内容を持った書籍だが、その中にキラリと羽生の厳しい認識と圭角が垣間見える本である。これを例に挙げるのは適切ではないかもしれないが、本書の冒頭で彼がはじめて名人位に挑戦する直前に起こした上座事件について触れており、その筆致は彼にしては珍しく(少しだけではあるが)感情的である。そこで述べられる理屈は端的に言って間違っているのだが、彼はこのときからただの将棋界の優等生ではなくなったのだと改めて感じた。
実は少し前あたり、羽生はもう現在の将棋界に嫌気がさしてチェスなど他のフィールドに移ってしまうのではないかと半ば本気で不安に思ったことがあるが、まだまだ将棋において情熱を持っているのが分かり少しほっとした。
さて、以上で本書の読書記録としては十分なのだが、一般の読者とは異なり、ワタシは将棋界に興味がある人間なので、羽生が書く他の棋士についての評言が面白かった。他の人についてとやかく書く人ではないのでそういうのは少ないのだが、大山康晴先十五世名人と加藤一二三九段についての文章を最後に引用しておく。
大山康晴先生は、「相手に手を渡す」のが上手で、意図的に複雑な局面をつくり出して相手の致命的なミスを誘導してしまうのが非常に得意であった。自分の力ではなく相手の力を利用して技をかける。だから強かった。(37ページ)
ハッキリいって、大山先生は盤面を見ていない。読んでいないのだ。(61ページ)
加藤先生はもう三十年ほどまったく同じ形の将棋しか指されない。食事もいつも同じものを注文なさる。違う食事を注文した日には、将棋会館に衝撃が走る。「今日は鰻ではなくて寿司を注文したぞ」と、一日中話題になるのだ。(138-139ページ)