yomoyomoの読書記録

2005年03月28日

斎藤貴男『機会不平等』(文春文庫) このエントリーを含むブックマーク

表紙

 五年前に本書を立ち読みしたときには、文字通り震え上がったものである。本書でも引用される佐藤俊樹『不平等社会日本』と本書により、日本の階層化社会、不平等社会化がクローズアップされ、広く認知されるようになったという印象がある。

 文庫本が出ていたのではじめてちゃんと読み通したが、かつて衝撃を味わった本の読後感としてはなかなか複雑なものがあった。

 本書が扱った問題、「ゆとり教育」の裏にある意図、派遣社員の労働環境と有名無実化した労働組合の問題などいずれもこの五年間の間に著者の危惧が現実化したといって間違いないだろう。それはすなわち本書が優れていたことの証でもあるのだが、その現実を生きる我々からすると、やはり本書は「過去」であるとも思う。実際読んでいて、おやおやその程度で憂えてますか、今はもっとひどいですよ的な冷笑(もしくは逆ギレ?)を何度も感じてしまい、そうした自分の反応にいささか戸惑ったりした。

 刊行から五年が経ち、今読むと本書の欠点も大分目に付く。本書を貫く危機意識は正当なものだと思うが、読んでいてさすがに粗が目立ち、そのままでは頷けないところも多い。

 誰もが脅え、戦き、自分よりも弱い者にコストを押しつけて保身を図り、あるいは苛めることで精神的なバランスを保とうとする。その対象を発見できない者は逆に開き直り、その構造を逆に利用していかなければ、自らの身を守ることも難しい現実。雇用関係を利用しなければ女性を口説くこともできない、情けない男ども。(123-124ページ)

 この文章に書かれる状況は現在もいろんな職場で散見されるものだろうし、もちろんそれは擁護されるものではない。しかし、こうした分かりやすい「悪者」を罵倒するだけではすまないもの、例えばNHKスペシャル「フリーター漂流」に描かれるようなよりマクロな搾取の仕組みへの視点を本書は取りこぼしている。それに「それは問題だろうが「機会不平等」の話じゃねーだろ」的な事例に苛立つところもある。

 あと問題意識としては共感するもののその論証がてんでなってないところは、例えば以下の竹中平蔵批判の文章。

 竹中が日本マクドナルド株の譲渡を受けたことは、なるほど違法ではない。だが彼が進めようとしている構造改革は、いわゆるグローバリゼーション、すなわち社会のアメリカ化を図るものである。マクドナルドはそのアメリカの、かつてのコカ・コーラに代わる象徴的な企業なのだ。とすれば構造改革を進める竹中の行動は、短期的な株価の浮き沈みを超え、結果的にマクドナルドの株価が上昇するしかない社会構造を作り出す、いわば”究極のインサイダー取引”になってしまわないか。(290ページ)

 どうも陰謀論的な書き方になってしまうのは著者の弱点だと思うが、ここはあまりに粗雑だ。本書執筆時点でのマクドナルド本社と日本マクドナルドの関係(後者の独立性)が少しも考えられてないから、上の文章における「マクドナルド」がどのどちらを指しているのかはっきりせずおかしなことになっている。マクドナルドがアメリカの象徴的企業だからって、どうして「結果的にマクドナルドの株価が上昇するしかない社会構造を作り出す」なんていえるんだ? 本書刊行以後、日本マクドナルドがどのような浮沈を辿ったかはご存知の通り。

 このように今読むと欠点も目に付くが、上の文章が含まれる第五章「不平等を正当化する人々」は今なお読む価値があると思う。そして本書の白眉はやはり第一章「「ゆとり教育」と「階層化社会」」だろう。日本の学生の学力低下が各所より指摘され、慌てて「ゆとり教育」を見直しするという迷走を続けているが、これに収録されたインタビューを読めば、ゆとり教育はエリート教育であり、学力低下は目的のひとつであったことは分かることである。

 いずれにしても本書に登場する人たちの思想に共通する社会ダーウィニズムは、山田昌弘の『希望格差社会』にまで地続きであり、やはり本書が一読に値する本なのは確かだろう。

 あと本書が書かれる時点で「自己責任」という言葉が既にスローガン化していたことに気付いたりもした。もっとも昨年この言葉が脚光を浴びた事件について、多分著者とワタシの考えはかなり異なるだろうが。


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