2012年01月09日
雨宮まみ『女子をこじらせて』(ポット出版)
著者の雨宮まみさんの名前をいつ知ったか思い出せないが、現在のはてなダイアリーに移転するずっと前に日記鯖(昨年サービス終了)で「NO! NO! NO!」という名前でウェブ日記をやってる頃からときどき文章を読んでいた。安田理央さんの共著『エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』を読んだのが5年以上前になる。
本書の元となった連載はポット出版のサイトで昨年まとめ読みしたが、途中から読んでて止まらなくなる感じで、息を詰めて読み通した。すごいものを読んだ、しかし、ここまで書くのか、と正直思った。その書籍化を楽しみにしながらも、一方で(大きなお世話だが)それを少し怖く思ったりもした。
こう書くと本書がすごく深刻な本のようだが、その文章は十分に楽しめるものだ。それは著者の書き手としての力量があるだろうし、何よりその文章に「不幸を後にした感覚」の客観性があるからだ。
自己顕示欲から目をそらして、謙虚なふりをしてもダメなんだ。女として認められたい気持ちから目をそらして、ただ自信なさげにしていてもダメなんだ。テレクラに電話して、覚悟をきめたつもりでいたけど、本当の意味で恥をかく覚悟なんて、ひとつもできてなかったんだ、そう思いました。(112ページ)
著者が「こじらせ」と表現する自意識の問題は、もちろんワタシも無縁の話ではない。ワタシは高校までは田舎の秀才だったため、スクールカーストの問題をスルーできたところがあるのでそうしたところは重ならないが、本書を読んでむしろ今現在こそ、本書に書かれる問題を著者とは違った形で抱え「こじらせて」いるじゃないかとワタシは頭を抱えてしまった。
この問題はそうそう簡単に片付くものではない。著者は故郷福岡の学生時代にはじまり、上京してから働くようになり、エロの分野のライターになってからもその都度で自意識の問題にとらわれ「こじらせ」続ける。彼女が周りから「美人ライター」と呼称されたときに感じた絶望感についての切実な記述が顕著だが、前に進もうとする足を絡め取るのは必ずしも他者の悪意だけではない。
最終的に著者は、男を切り刻む方向にはいかず、自分が女であることを受け入れ、認める心境に達する。これで著者は「こじらせ」から卒業したのか? それは分からない。やはりこれからも自意識の問題は形を変え、立ちはだかる壁になるのではないか。しかし、一番最後に最も力強く「不幸を後にした感覚」の手ごたえを感じられるところが、本書の読後感をよいものにしている。おそらくそれは著者自身が本書を書き上げての感覚に近いのだろう。それでいいじゃないか。
笑われるだろうが、ワタシは本書を読んで中島みゆきの「泥海の中から」を連想した。恋愛の汚さを受け入れ、逃げることなく自分が女であることを引き受ける覚悟を決めた著者に同種の雄雄しさを感じたのだろう。
本書が気になっているが買おうか迷っている人は、『アラサーちゃん』をものにした峰なゆかさんと著者による「こじらせ女子 総決起集会!!」を読むのがよいだろう。本書で書かれる「男目線を内面化」することの問題が楽しく語られている。そうそう、本書に収録された久保ミツロウ先生との対談も相当に面白い。久保ミツロウさんがここまで現在も「こじらせてる」とは思わなかった。スケールは破壊的に劣るものの、久保先生が感じるジレンマを実はワタシ自身も抱えていることに気付いてまた頭を抱えてしまったりもした。