yomoyomoの読書記録

2008年07月14日

速水健朗『ケータイ小説的。 "再ヤンキー化"時代の少女たち』(原書房) このエントリーを含むブックマーク

表紙

 著者の速水健朗さんから献本いただいた。

 ワタシは著者と同じ年であるが、本書のテーマであるケータイ小説はまったく読んだことがなく、伝え聞く話だけで自分が読むものじゃないと決め付けた、まぁ、30代半ばのおっさんとしては珍しくない存在だと思う。ケータイ小説が(本書の言葉を借りれば)「被差別文学」視される一方で、昨年からケータイ小説を論じる本も多数出ているが、そちらもやはりまったく読んでいない。

 だから本書を速水さんから手渡されたときも、読んで全然ピンと来なかったら気まずいなと不安だったのだが(栗原さんのときと同じことを書いているな)、これがすごく面白かった。前作『自分探しが止まらない』より自分と接点が乏しい題材であるが、本書のほうがより強い著者の確信を感じさせ、ぐいぐい読まされた。

 前述の通りケータイ小説自体はワタシの生活と接点がないのだが、昨年の夏休み長崎に帰省したとき、ベンジャミンと飲むために遊INGという、端的にいえば TSUTAYA 的な店で待ち合わせをしていて、何気なく本を見て回っていたら店のワンコーナー、壁一面ケータイ小説(と思しきもの)が並べられていて、その点数が放つ迫力にびっくりしたのを覚えている。その後でケータイ小説は実は地方で売れているという話を聞き納得したのだが、本書を読むとそのあたりについても得心がいった。

 我が故郷の後輩たちは、あんな本を「泣ける」とか「リアル」とか言って読んでいるのかぁ……と正直ポジティブな気持ちになれないのは仕方ないのだが、「被差別文化」という言葉をキーにすれば、筆者と同年の著者がケータイ小説に取り組んだのは不思議ではない。

 ケータイ小説のキーパーソンとしての浜崎あゆみという話を最初読んだときはちょっと安直じゃないかと甘く見ていたのだが、ケータイ小説の多くが「笑わない歌姫」浜崎あゆみのオマージュである(!)ことをこじつけでなく明快に論じていくのには驚いた。著者はそれを見透かすように書く。

多くのケータイ小説を語る論客が、ケータイ小説が強く、明確に浜崎あゆみの詞の世界に影響を受けていることに気が付いていないのは、そのような流行歌ですら、一部の人間にしか届いていないという現代の状況を反映しているのだろう。(35ページ)

 次に本書は「ケータイ小説にとってのリアルさ」を解き明かしていくが、雑誌『ティーンズロード』とケータイ小説の類似性の話は、ヤンキー文化と接点のなかった当方には驚きだった。そして駆逐されたはずのヤンキー側のトライブから登場した浜崎あゆみ、そして彼女も好きな「リアル系」の王者としての相田みつを(彼も被差別文学者だ)、そして上にも書いたケータイ小説が地方で売れる理由を「東京」の欠如に見出す著者の手さばきは巧みである。

 また分析の過程で、著者は宮台真司の郊外論や三浦展のファスト風土論を援用しているが、決してそれに従属はしていない。ケータイ小説が「地元つながり」という男性文化において阻害された女性の立場を語った物語であり、ケータイ小説の題材となる恋愛描写にみるデートDVからケータイ小説において恋人が死んでしまう理由を読み解く流れも読んでて白熱した。第4章の終わり方などちょっとかっこよすぎるくらい。

 上に書いた通り、本書は「被差別文化」に属するものが重要な役割を果たしている。それが世代的に想定読者層にとてもではないが入らない著者が本書を書けた鍵だと思えるし、これは勝手な推測だが、著者は本書の構成を決めた時点でその成功を確信していたのではないか。


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