2007年05月07日
レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(早川書房)
ようやく読み終えた。レイモンド・チャンドラーの最高傑作 The Long Goodbye の村上春樹による全訳である。
これまで何度も書いてきたように当方はこの本を清水俊二による『長いお別れ』として何十回と通読している。今回の新訳を読み終えて何か印象が変わるかと思ったが、本作が畢生の名作であるという評価は変わらなかった。当たり前か。
こうして文学史に残る名作の新訳が出ると、必ず以前の訳が良かったとか難癖をつける輩がいる。当方はその轍は踏むつもりはない……のだが、やはりこれは正直に書かないといけない。ウェイド邸のパーティの場面が顕著だが、今回の新訳は会話部分がしっくりこなかった。もちろん意味的におかしいというのはないが、言葉のリズムは清水訳のほうがはっきり優れているように感じるし、この新訳には「現実の会話でこんな言葉を使うかなぁ?」と首を傾げる箇所がいくつもあった。
硬い訳が新訳で読みやすくなる例は多いが、訳が新しくなってひっかかりを感じるというのはこれ如何に。それだけ映画字幕でならした清水俊二の言葉のリズムに当方が馴染んでいたということであり、脱漏や省略のない完全版を訳した村上春樹に感謝しているのは言うまでもない。
彼は「準古典文学としての『ロング・グッドバイ』」という長い訳者あとがきを書いているが、ワタシがレイモンド・チャンドラーの作品に感じてきたことが裏付けてもらえたように思え、嬉しかった。
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』との相似性については、『グレート・ギャツビー』の旧訳を大学時代読んだが正直ピンとこなかったのであまり印象に残っておらずよく分からないが、文章家としてのチャンドラーの手法、筒井康隆がハードボイルドの本質として挙げるパースペクティブ、外的焦点化と重なる議論を踏まえながらの、チャンドラーが作り上げたフィリップ・マーロウという「仮説としての自我」の特質、そして『ロング・グッドバイ』がチャンドラーの最高傑作になったのは、テリー・レノックスというマーロウの仮説性に膨らみを与える人物を獲得したからという指摘、そして翻訳の問題まで網羅する村上春樹の解説だけでも旧訳のファンも本書を買う価値はある。
ワタシはかつてフィリップ・マーロウについて、彼の言葉は小説上の彼の生きる姿勢を反映したものである、つまり探偵という後ろ暗い稼業、言うなればモンキービジネスを営みながら、またそれに屈託するだけの知性を持ち合わせながら、不本意な妥協、切り売りを強いる世間に対して、自身の信念をごまかすことなくプライドを守り抜こうとする果敢さの反映だと書いたことがある。村上春樹の解説を読み、マーロウの迂回と果敢さは、本格小説を書きたいと真剣に考え、強い自負と慢性的な不安の間を行き来しながら、ミステリーという限定された分野で傑作をものにしたチャンドラーの姿と相似をなすものだと解説を読んで今更ながら思い当たった。チャンドラーもマーロウも、その姿勢は常に真摯であり、決して信念をごまかさなかった。
最後に長くなるが引用させてもらう。
しかしチャンドラーの登場人物たちは――ヘミングウェイ的な意味合いにおいてはということだが――戦わない。ボクサーのように正面きって戦いを挑むことはない。それは目には見えないし、立てる音も聞こえない相手だからだ。彼らはそのような宿命的な巨大な力をまず黙して受容し、そのモーメントに呑まれ、振り回されながらも、その渦中で自らをまっとうに保つ方策を希求しようと努める。そのような状況の中で、彼らに対決すべき相手があるとすれば、それは自らの中に含まれる弱さであり、そこに設定された限界である。そのような闘いはおおむねひそやかであり、用いられる武器は個人的な美学であり、規範であり、徳義である。(p.548-549)