2014年06月23日
グレン・グリーンウォルド『暴露――スノーデンが私に託したファイル』(新潮社)
本書については昨年末から刊行を楽しみにしていた本だが、まさか世界同時発売が実現するとは思わなかった。ただ、本書はそれだけの重要な内容を持った本である。ワタシが読んだのは Kindle 版でなく紙版で、以下ページもそちらに拠る。
本書は、2012年の末に著者のグレン・グリーンウォルドの元にエドワード・スノーデンから(当然ながら最初は偽名を用いて)メールが入るところから始まる。
しかし、話は一向に進まない。グリーンウォルドは、キンキナトゥスを名乗る謎の人物から PGP を使うよう要請されるものの、なかなか重い腰を上げないからだ。それに対して謎の人物は尋常でない親切な態度で接する。今となっては、この謎の人物、つまりはスノーデンが何者で、何のためにグリーンウォルドと安全性を確保したメール通信を行おうとしたのか明らかなのだが、スノーデンが親切に著者を助けようと申し出るたびに「しかし、私は結局○週間何もしないままだった」式の文章が続くと、ほとんどブラックユーモアの領域で、思わず笑ってしまった。
けれども、ここにセキュリティにまつわる不幸の一端があるのも確かで、安全性を確保することは確かに面倒なのだ。かく言うワタシだって、メールで PGP を利用してないわけで、偉そうなことは言えない。
第一章と第二章における、スノーデンから恐るべき内部告発を受け、遂には著者(とドキュメンタリー映画作家のローラ・ポイトラス)が香港のホテルでスノーデンと接触し、彼の情報を元に英ガーディアン紙に爆弾級の告発記事をものにするまでは、スパイ小説のようなスリルがある。
当然ながら本書を面白いお話としてただ楽しむことはできない。これは我々日本人にも大きな影響がある問題なのだ。中央情報局(CIA)と国家安全保障局(NSA)という米国の二大情報機関に在籍し、高次元の業務を担当したエドワード・スノーデンが、自分が眼にしたものを皆に知らせなければならないと思いが使命感の域まで高まったのは、彼が日本で働いていたときなのだ。
「日本のNSAで多くの時間を過ごすほど、こうしたすべてを自分の中だけに留めておくことはできないと感じるようになっていきました。すべてを公の眼から隠すことを事実上手助けしていることに、苛まれるようになったんです」(p.73)
スノーデンは、「プライヴァシーも自由も存在しない世界に住みたくはありません。インターネット独自の価値が奪われた世界には」と語るが、本書はその「インターネット独自の価値」がいかに NSA に脅かされているかを如実にする。そして、オバマ政権はその発足約束したような政府の透明性を実現しようとせず、ブッシュ政権から違法なユビキタス監視システムを受け継ぎそれを強化し、またこれまでの全政権での累計数よりさらに多くの内部告発者を逮捕している。
今では「プライバシーなんて存在しない」としたり顔で言うほうが、「プライバシーを守れ」と訴えるよりも何か潔く、強そうに見える。しかし、プライバシーと自由は、民主主義を実現する根本にあるはずで、本書を読んでいて、ワタシが「社会的価値としてのプライバシー(前編)、(後編)」とそっくり重なるところがいくつもあるのを心強く思った。ワタシは本書を読む前は、そういうのは無駄だからもう諦めろと力説する本だと思っていたので、著者の本質を重視する姿勢に打たれた。
プライヴァシーの大切さは、プライヴァシーはもう”死んだ”とか”なくても困らない”とか宣してその大切さを軽視する人たちでさえ、自らのことばどおり行動していないことからも明らかだ。そういう人たちにかぎって、自分の言動や情報の可視性を何がなんでもコントロールしようとする。(p.255)
ここで注目すべきは、プライヴァシーの価値を軽んじる一方で、自らの個人領域を死守しようとする人々の偽善ではない(もちろん、それも特筆に値するが)。それより注目したいのは、プライヴァシーを保護したいという願望は人間が人間らしく生きるために――付随的ではなく――不可欠なものとして、われわれ全員が共有する願望だということだ。(中略)つまり、プライヴァシー保護は、自由な人間として生きるために核となる条件なのだ。(pp.256-257)
実際には NSA のユビキタス監視システムは有効ではないというのを本書は主張しており、ワタシもそれに賛成する立場である。それではなんで NSA は「すべてを収集する」ことに執着するのかということになるが、かつてエドガー・フーヴァーが辿ったパラノイアの道が組織化されてしまったのか。NSA の信号情報国家情報官は、アメリカが地球規模の監視を独占し続けようとする動機を「国益、金、エゴ」にまとめているが、おそらくは三つ目が重要なのだろう。
スノーデンによる告発がガーディアンに掲載されたのは、著者がずっと寄稿していた関係で不思議ではなかったが、アメリカではワシントン・ポストが最初だったのは不思議に思っていた。要はなんでニューヨーク・タイムズではないのかということだが、本書ではそのあたりについてはっきり書かれている。第二章を読むと、ガーディアンも大変なリスクを負って記事を掲載したことが分かるのだが、それまでの著者の苛立ち、著者とローラ・ポイトラスとの間の亀裂にフォーカスされる形だが、そのあたりは第五章「第四権力の堕落」の伏線になっている。実は NSA と同じくらい第四の権力、つまりは報道機関もその姿勢を告発されているのが本書の面白さの一つである。
著者もスノーデンも、告発の中身よりも告発者を貶める報道が集中的に行われることを危惧し、実際その通りになったわけだが、著者自身も報道のターゲットとなる。本書において、著者は主要なメディアにおいてなされた事実に反した報道について、その報道者の実名を挙げながら論駁している。
そこで名前が多く挙がるのがニューヨーク・タイムズで、もちろん中には気骨がある編集者もおり、それは著者も紹介しているが、ニューヨーク・タイムズは本書についても腹いせ的書評を掲載する愚を犯している。日本にはなぜかニューヨーク・タイムズの名前を権威として持ち出し、やたらとありがたがる人が一部にいるが、そういう人たちも本書をよく読んだほうがよい。