2010年12月27日
スコット・ローゼンバーグ『ブログ誕生 ―総表現社会を切り拓いてきた人々とメディア』(NTT出版)
NTT出版の神部さんから献本いただいた。
スコット・ローゼンバーグは前作『プログラマーのジレンマ 夢と現実の狭間』を読んで、ストーリーを語るのに欠かせざるピースとしてコンピュータ世界の偉人たちの仕事を巧みに紹介する手腕に感心し、当時刊行されたばかりの新作 Say Everything がブログの歴史を辿り、その重要性を語る本だと知って期待を込めて「敢えてブログは重要だと言いたい」という文章を書いたのだが、その期待を裏切らない本である。かつてレベッカ・ブラッド『ウェブログ・ハンドブック』(もちろん彼女の名前も本書には登場する)を訳したワタシのような人間にとって、本書は涙なしには読めない感動的な本だった。これは誇張ではなく、本書の第10章で紹介されている、アンドリュー・オルムステッド米国陸軍少佐が生前他のブロガーに託した「最後の記事」を電車の中で読みながら、ワタシは涙をこぼした。
本書のイントロダクションは、2001年9月11日の朝、ジェームス・マリノがオフィスから目撃した光景、そして彼のブログ BroadwayStars.com に普段のニューヨークの演劇シーンについてのニュースから離れたエントリを連投する様子から始まる。そして、この2001年9月時点のウェブ出版冬の時代だったビジネス状況を振り返り、エヴァン・ウィリアムズ、デイヴ・ワイナー、デヴィッド・ワインバーガー、ニック・デントンといった本書の主要登場人物である有名ブロガーを紹介し、ブログの起源をティム・バーナーズ=リーやマーク・アンドリーセンの仕事まで辿るところはお見事。
それに続く第一部「パイオニア」を読み、昔ワタシ自身がジャスティン・ホールに対して感じた嫌悪感を懐かしく思い出し、総表現社会の理想を語りながら、現実にはその強情さゆえにどうしても揉め事にまきこまれ、自らの言葉を試されてしまうデイヴ・ワイナーの苦闘に(スケールは遥かに小さいながら)自身の経験を重ねて苦笑したりした。
ウェブが登場し、許可を求めることなく何でも好きなことを発信できるようになった結果、可能性は大きく広がったが、勝利宣言を出したいという欲望が満足されることはなかった。討論をするとき、議論を蒸し返したい、あるいはそれこそ相手を攻撃しつづけたいという欲望を持つようになった。そのようなことをしてもあとに残るのは対立だけだというのに。媒体にもツールにも、その欲望を抑える働きがない。ブログの普及から何かが生まれるとしても、人が心の狭さから解放され、不和のない世界が生まれることはありえない。(95ページ)
しかし、ウェブログがブログに変わるまでの歴史的経緯に関心がない人にとって面白いのは第2部「拡大」からだろう。エヴァン・ウィリアムズといえば今では Twitter の人だが、彼(とメグ・ホーリハン)が Blogger のために奮闘した話は、昔を知らない人にこそ読んで欲しいし、ソーシャルメディアがアメリカ大統領選挙に多大な影響を持つ下地として政治系ブログの台頭があった流れも本書をよく読むと分かるし、Gizmodo や Engadget、そして TechCrunch の日本版を読んでる若い人にとってこうしたニュースメディアに匹敵する商業ブログの存在は当たり前のものかもしれないが、当然ながら木になってできたものではないのだ。そうした意味で本書は学ぶべきところの多い本だし、ワタシが何度も引き合いに出してきたWeb 2.0的思想の源流としての『The Cluetrain Manifesto』にもちゃんと言及があるのは嬉しかった。日本のブロゴスフィアの発展との共通点、相違点を考えるのも面白いだろう。
スコット・ローゼンバーグは一本調子にブログを称揚することはせず、いろんな問題点も網羅して指摘することで歴史物語に厚みを持たせている。それは新参ブロガーがアルファブロガーになることが難しいというブロゴスフィアが持つ数学的特性の不公平さを示したクレイ・シャーキーの Power Laws, Weblogs, and Inequality(べき乗則、ウェブログ、そして、不公平さ)であったり、理想的なブログのあり方を体現していた Boing Boing のヴァイオレットブルー事件を巡る対応が浮き彫りにしたブログ記事の(非)公開と透明性の問題、そしてブログに書きすぎることにより職を失う話に代表されるブログのリアルさを追求することの危険性などである。
第3部「ブログがもたらしたもの」は、ジャーナリスト対ブロガーというブログの歴史を語る上で欠かせない話題から始まる。
このようにブロガー(原文傍点)もジャーナリスト(原文傍点)も異なる活動の名前にすぎないのだが、それが派閥の象徴のような位置付けになってしまった。一見正確性や客観性などが問題のように見えるが、その実、争われていたのは資格であり、権利であり、敬意であった。ブロガーに支持者からから情報が寄せられるようになると、ジャーナリスト側は「そんな資格、誰が与えた?」ととがめる。聞かれたブロガーは、逆に、「じゃあ、あなた(原文傍点)は誰に資格を与えられた?」と反撃する。(349ページ)
著者はその両方に身を置いている人間だが、キャス・サスティーンの Echo Chamber 論、アンドリュー・キーンのあからさまなエリート主義、そしてニコラス・G・カーのウェブは深い読解力を失わせるといった指摘に対し、冷静に反論している。その反論には説得力の弱さを感じるものもあるが、ワタシが著者の文章に心地よさを感じるのは、ブログが何より個人の声であり、その発信を可能にしたことこそが最大の特質であるという点についてブレがないからだろう。ブログにより初めてクビになった(彼女のブログ名にちなんで Dooced と言われた)とされるヘザー・アームストロングのその後や、メリル・ストリープ主演で映画化された『ジュリー&ジュリア』の元となったブログが、著者が Salon.com で主導し(残念ながら不首尾に終わっ)た Userland とのコラボレーションから生まれた話などこの世界に興味ある人間にとっては面白い逸話にも事欠かない本である。
さて、本書にもブロゴスフィアの飽和の話が最後に出てくるが(本書曰く、実のところブロガーがブログを書く歴史は、ブログを「やめる」歴史でもある)、最近も Pew Internet のレポートを踏まえ、「ブログの時代は終わった」かと話題になった。
もしかしたらそうなのかもしれない。不謹慎な想定だが、現在 9.11 テロが起こったら、前述のジェームス・マリノの連投は、ブログではなく Twitter 上で行われるだろう。そうした意味で、かつて Blogger を作ったエヴァン・ウィリアムズが後に Twitter に移行した必然性をもう少し食いついてほしかったという不満を本書には感じるが、「15年前、私がべたぼれした、雑然としてエネルギーにあふれたウェブは、今も存在している」と書き、飽くまで個人の表現、発信を称揚する著者の姿勢に読んでて胸が熱くなった。