2005年02月21日
遠藤周作編『友を偲ぶ』(知恵の森文庫)
本書のことは編者である遠藤周作の晩年のエッセイで知り、読んでみたいと思ったものの書名が分からず手に取ることがなかったのだが、先日文庫本になっているのを知り購入した。これでようやく三島由紀夫による「谷崎朝時代の終焉」を読むことができた。
本書は題名を読めば想像できるように追悼文を集めた本である。文庫版特別編として1996年に死去した本書の編者への安岡章太郎の追悼文が追加収録されている。
編者自身認めているように、昭和のそれも戦後に書かれたもの、しかも文学者の追悼文に偏っている。それは本書の欠点ではない。「私が知っている故人の姿が活写されたもの」というのは読者にもある程度あてはまることであり、また文学者により書かれたものに偏るのも必ずしも編者が作家だからというだけではないからだ。
死者に鞭打たずというが、たいていの追悼文は故人を率直に語るよりは、故人の長所や才能を強調し、生前の業績をほめたたえているものが多い。政界や経済界の人はこの傾向が強くて、生前はライバルとして血みどろの争いをしたのに追悼文では美辞麗句を並べて相手を美化しているので、読んでいてもあまり面白くない。美辞麗句が多ければ多いほど血が通っていない。(4ページ)
そして付け加えるならば、編者の追悼文に安岡章太郎が引用している川端康成の『末期の眼』にあるように、「女との間には、生別というものがあっても、芸術の友にあるのは死別ばかりで、生別というものはない。」ということなのだと思う。真の芸術の友がその死別に際して書いたものに優れたものが多いのも道理である。
本書の目次に並ぶ名前を見て興味を持つ人であれば買っておいて損はないだろう。もちろん中にはつまらない文章も含まれているが(壇一雄による坂口安吾の追悼文など)、『追悼の達人』という同趣旨と思しき本の編者であり、本書の解説文を書いている嵐山光三郎が、その中で「追悼は、死者への心をこめた批評である」と書くのに相応しい文章がいくつも収められている。
死者に対する見事な批評足りえているのは、同じ芸術の友としての厳しい眼と愛情の両方があるからで、例えば武田泰淳の「三島由紀夫氏の死ののちに」は、深沢七郎の『風流夢譚』事件の直後に、警察署が三島由紀夫と武田泰淳の両方に保護役の警察官を差し向けた話など驚くべき逸話を挟みながら(つまり三島が右翼に狙われると考えたわけだ!)、はっきりいって武田泰淳による率直な三島批判といってもおかしくない文章である。
そして故人の家族による心をこめた批評も本書には含まれている。北杜夫による斎藤茂吉への「頑固にして専横」、石原慎太郎による石原裕次郎への「戦士への別れ」がそれで、前者は偉大な歌人であった父について、気負うことなく淡々と率直にその関係の変遷とともに故人の人柄を書いていて感動的であるし、後者についてははじめて石原慎太郎の文章を読んで感心した。
本書を読んで個人的に一番面白かったのは、何より書き手の持ち味が強くでている文章が多いところ。そんなの当たり前ではないかと言われそうだが、逆に言えばそれが本書に収録された文章の借り物の言葉の少なさ、血の通い具合をあらわしていると言える。
そうした意味で梅崎春生について語る遠藤周作はその俗っぽいところがよく出ているし(けなしているわけではない)、色川武大による川上宗薫の追悼文には氏の独特のバランス感覚が垣間見え、また最後の夢の話も彼らしい恐さを湛え、そしてその色川武大の夢への傾斜を筒井康隆が弔辞で見事に語っている。池波正太郎の粋を語ろうとしてどうしても説明過多になってしまう司馬遼太郎も、お前ら本当に手塚治虫のファンなのかと憤る中島梓も、のっけから弔辞そのものを否定する安部公房もいかにも彼ららしい。
そうした意味で、追悼される側だけでなく、追悼する側の略歴も付けたほうがよかったのではないか。
それでは、本書の中で唯一声をたてて笑ってしまった色川武大の文章を引用して終わりにする。
川上さんは、自分よりも私が早く死ぬと確信していた。また私もそう思っていた。なにしろ川上さんは存外に摂生家であり、私は不摂生の代表みたいなものだったから。
だから私が死んだあとのことを、折にふれていろいろと気にかけてくれていたらしい。
私のカミさんに、
「彼が死んだら、俺が全部面倒見るからね。なにも心配しなくていいよ」
私の居る前でそういっていた。
「そのかわり、やらせろな」(121ページ)