2012年03月05日
トム・スタンデージ『謎のチェス指し人形「ターク」』(NTT出版)
以前トム・スタンデージについて書いた関係で、本書の訳者である服部桂さんから『ヴィクトリア朝時代のインターネット』とともに献本いただいた。
ワタシがチェス指し人形「ターク」のことを知ったのは、大学時代読んだ小林秀雄の『考えるヒント』に収録された「常識」の冒頭部の記述だった。
学生時代、好んでエドガー・ポーのものを読んでいた頃、「メールツェルの将棋差し」という作品を翻訳して、探偵小説専門の雑誌に売った事がある。十八世紀の中頃、ハンガリーのケンプレンという男が、将棋を差す自働人形を発明し、西ヨーロッパの大都会を興行して歩き、大成功を収めた。其後、所有者は転々とし、今は、メールツェルという人の所有に帰しているが、未だ誰も、この連戦連勝の人形の秘密を解いたものはない。ある時、人形の公開を見物したポーが、その秘密を看破するという話である。
ワタシも将棋を指すので、チェスを指す機械を作ることがどういうことか分かっているつもりだ。18世紀の時点でそれを作るのなんて無理なことで、それこそ「常識」レベルの話ではないか。どうせ「ターク」なんて山師が作った見世物に決まっており、そんなものの話が果たして本の題材になりうるのか――と本書を読む前、正直いぶかしく思っていた。
しかし、確かにこれが面白いのだ。偶然にも産業革命が起こった18世紀中頃は人間と機械の関係が再定義された時期であり、それ以前からオートマトン(自動機械)の流行があった。本書はその「現代のテクノロジーのほとんどの、忘れられた祖先」であるオートマトンの話から始まるが、今の目から見ても結構すごい機能を実現するオートマトンの話に魅了され、「ターク」というチェス指し人形の話を受け入れそうになる。そして「タークを正真正銘のものと考える人々のバカさ加減を嘆いたのは、この書評を書いた人物以外にもいた。(p.68)」という記述で我に返り、そして自分がそれにいささかムッとしているのに気づく。いささか感情移入していたらしい(この心理についても、本書に後半ちゃんと解説がされている)。
面白いのは「ターク」の作者ヴォルフガング・フォン・ケンペレンが、ワタシが事前に想像していたような山師ではなくれっきとしたハンガリーの官吏で、「ターク」も出世の手段の一つであり、当人はこれを見世物にして欧州を巡業することを嫌がっていたところ。そして彼の死後「ターク」を受け継いだヨハン・ネポムク・メルツェルという男もオートマトンの作者でありながら、こちらは興行師としての資質があり、またその浪費癖が絡んだ結果、「ターク」はアメリカに渡ることになる。
本書を読んでいてワタシが連想したのはサイモン・シンの『フェルマーの最終定理』である。これは過大評価と言われそうだが、17世紀の嫌味な秀才の謎かけが結果として数論に留まらず様々な分野への応用に貢献したように、作者自身あまり評価していなかった「ターク」が、ベンジャミン・フランクリンやナポレオンといった歴史上の偉人たちとチェスを指し、ケンペレンの喋る機械についての本がグラハム・ベルを触発して電話の発明につながり、メルツェルとルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの交友は(ナポレオンを媒介して)彼の生前実はもっとも有名だった楽曲「ウェリントンの勝利」を生み、(冒頭に引用したように)アメリカに渡った「ターク」を見物したエドガー・アラン・ポーは、後に彼が書く推理小説につながる観察眼を発揮した文章を書いている。そして何より、機械知能(マシン・インテリジェンス)が可能かという命題は、「ターク」を一種の象徴としてチャールズ・バベッジ、アラン・チューリング、フォン・ノイマンといったワタシにとって馴染み深い情報工学の偉人たちを触発してきたのだ。
その誕生以来、「ターク」はそれを見物した人たちによってその原理の謎を解こうとされてきた。本書はその話も詳しいが、珍奇な説がいくつも紹介されていて人間の想像力に微笑んでしまう。この読書記録に「ターク」の種明かしを書くことはもちろんしないけど、もしこれから本書を読むつもりの人は、事前に Wikipedia の関連項目を絶対読まないことをお勧めする。
チェスで人間のチャンピオンを負かす人工知能という命題は、ご存知の通り21世紀近くになって IBM のスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」によって実現する。本書は最後にその話になるが、ディープ・ブルーと対したカスパロフが「ターク」と対した人たちと同じ疑いを持っていたという話は面白いし、本書はその対戦結果を踏まえ、最後にチューリングとの絡みであっとなるような意外な結論にいきつく。ワタシは見事に「ターク」に騙されたようだ。