yomoyomoの読書記録

2009年05月18日

梅田望夫『シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代』(中央公論新社) このエントリーを含むブックマーク

表紙

 著者は以前からブログなどで将棋について活発な言及を行なっているが、本書は棋聖戦、竜王戦のウェブ観戦記を含む、現代将棋についての文章、対談をまとめた本であり、ワタシ自身ずっと読みたかったものだ。結果として本書は、副題に名前が挙がる羽生善治をはじめとして、佐藤康光、深浦康市、そして渡辺明という本書執筆時点でのタイトル保持者全員、つまり現代将棋の最高の高みを体現する人たちの現在を切り取る貴重な証言になっている。

 本書の第一章は「羽生善治と「変わりゆく現代将棋」」だが、著者の視点が羽生善治という人と非常に相性が良いことを再確認させられる。著者が紹介した羽生善治の言葉では、「将棋が強くなるための高速道路とその先の大渋滞」が最も有名であるが、「イノベーションを封じる村社会的言説」、「知のオープン化と勝つことの両立」など情報技術の革新を踏まえて将棋を語る手際は見事で、「理想の棋士とはすべての戦型に精通し、局面での最善をひたすら探すべき存在であって、得意戦法など持つのは棋士の理想ではない」という羽生のオールラウンドプレイヤー思想(いや、これはとんでもなく難しいことである)がようやく理解できたように思う。

 本書の大きな魅力の一つに、何より時に激しく厳しい面も覗かせながら最高の将棋を追い求める上記トップ棋士の真摯な生き様を敬意をもって見つめる目がある。

 将棋というゲームは日本のローカルな文化である。しかし著者は、渡辺明竜王を筆頭にして、良質な若手棋士たちにアメリカの一流大学に留学してくる科学分野の俊才たちと似た雰囲気を感じ取り、彼らから得た感動をウェブを通じて何とか将棋界の外につなげようとする。

 対局の翌朝、佐藤さんと田崎君と私の三人が、たまたま一緒になる機会があった。私は田崎君に、前日の仕事ぶりを褒めた。しかし彼が私に何か返答する前に間髪入れず、佐藤さんが真顔で厳しくこう言った。

「修業ですから!」

「あんなこともできないようでは、その先にプロとしてやっていくことはできませんから、プロの仕事はもっともっと大変ですから」

 佐藤さんの言葉に、私は震えた。現代日本が忘れてしまった何かが、そこには凝縮されていたからだ。

 将棋の世界には、日本文化の素晴らしき部分が深く確かに継承されている。そしてそれゆえに、現代という厳しい時代を私たちが生きていくうえで学ぶべき要素が無尽蔵に含まれている。(94ページ)

 正直に書くと、ワタシは著者が書く「指さない将棋ファン」というのに懐疑的だった。ワタシ自身それなりに将棋を指すが(アマ二段の免状を持つ。将棋倶楽部24ではなんとか三段を維持してる程度)、戦法の最新動向にまったくついていけず、現代将棋の高みを理解できていないという負い目があったからだ。指さない人がどこまで分かるのかと。

 しかし、著者が説く「指さない将棋ファン」宣言は、むしろワタシのような考え方による抑圧を解放するものである。

梅田 プロのように美しい将棋を自分で指せるようになるには、それこそ一生を費やさねばならない。そんな根性はないから観るだけのファンになるのだけど、棋力が伴っていないと、発言は控えなくてはいけない。将棋の世界には、そんな暗黙の了解があったと思います。(236ページ)

 将棋ファンを増やしたいなら、「じゃあ、お前指してみろよ」と言われてしまうような空気、つまり将棋の実力をもってそれへの愛情を測るような価値観が支配的ではダメなのだ。

 もちろんそれには前提条件があり、それは一局の将棋がただ棋譜として提供されるのではなく、将棋を語る豊潤な言葉が付随して提供されなければならない、ということである。そのために著者はウェブ観戦記の利点を語り、「出でよ! 平成の金子金五郎」と現代将棋を、棋士たちを魅力的に伝える若い書き手の登場を期待するのだが、これにはワタシも諸手を挙げて賛成する。羽生さんは著者との対談で「ネット観戦記の何がよかったかというと、あれはじつは「梅田さんも対局していた」ということなんですよ!」と思い切った発言をしているが、こんなことを羽生さんに面と向って言われたら、ワタシはもう死んでもいいね!

 このように本書は、ワタシのようなスレっからしの将棋ファンが読んでも、最近の将棋界のゴタゴタを忘れさせてくれ、トップ棋士たちの姿とその将棋にフォーカスさせてくれる好書である。最後に一点本書で気に入らないところを書いておくと、それは書名である。タイトル戦を間近で観た興奮を伝える観戦記、並びにそれを通じて知ることのできた対局者や観戦者の活写が本書の重要な部分を占めることを鑑みれば安楽椅子探偵的にもとれる書名はピント外れであるし、第一著者は観戦記を書くための情報を日本にいようがフランスにいようが「あちら側」から取ってこれることを書いているではないか。

 『シリコンバレーから将棋を観る』ではなく『シリコンバレーの眼で将棋を観る』がより本書には似つかわしいのではないか。


[著者名別一覧] [読観聴 Index] [TOPページ]


Copyright © 2004-2016 yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)