寝床正月


 90年代最後に聴いたCDは、ドアーズの「アメリカン・プレイヤー」だった。近所の寺で除夜の鐘を一発撞き、年が明けたのを祝う花火を自宅の屋上からひとしきり見た後、輝ける2000年に最初に聴いたCDは、ベルベット・アンダーグラウンドの再結成時のライブ盤である。一体何を考えているのだか。

 翌朝例年通り初詣に出かけ、ゲームセンターに寄ってから自宅に戻り、雑煮を食す。その後、新聞で年末ジャンボ宝くじの当選番号をチェックした。

 三枚当たっていた。そう、300円×3。ビギナーズ・ラックに期待しまくりだったのだが、そんなものはありはしなかった。

 俺はそういう星の下に生まれた奴なんだなあ。初めて競馬に行ったのが94年の菊花賞で、友達と朝から京都競馬場に出向きながら、一日いて全レース外したもんな。疲れ切ったところで迎えた本番菊花賞、二番人気のヤシマソブリンがパドックでやたら荒れてたんで、よしこいつは来ない、ふふ、テレビの前にいる愚民ども、俺はこの目で馬の調子を見切ったんだぜ、とヤシマソブリンを外してナリタブライアンから流したんだけど、終わってみれば何のことはない、ヤシマソブリンがきっちり二着におさまってやんの。ハズレ馬券を握り締めて南井コールをするのは虚しかったよなあ・・・と回想し、すっかり意気ショーチン状態に陥ってしまった。


 それはどうでもよろしい。新しい一年の始まりじゃあないか、と立ち上がろうとして目眩がした。大晦日から少しおかしかったのだが、体調がヘンチョーらしい。よほど宝くじに外れたのがショックだったのか。いや、やはり年末の四日連続の飲み会で身体にかなり無理がきていたのだろう。

 仕方がない。薬を飲み、自室に引き篭ってベッドに入る。

 熱があるのがはっきり分かる。しかし、僕は熱を測らないことにしている。どうも神経質な性分のため、一度熱を測りだすと気になって仕方がないのだ。例えば風邪薬を飲んでから半時間毎に熱を測り、熱が下がらないのに苛々してしまったり、と本末転倒しまくりであることを悟ってからは、体温計を使わないようになった。この話を友人にすると、皆あきれたような顔をするのだが、そんなにおかしな話だろうか。

 一眠りして目覚めると喉が重く、頭痛もする。これは本格的だ。こうなるとこっちも本格的に寝るしかない、のだが余りに不快感が強く、ぼんやりしたままグダグダしているうちに夕食の時間になった。


 「風邪をひいたら栄養のあるものをたらふく食ってぐっすり眠ることだ」と医者でも言うことがあるのだが、これほど一般まで広まった妄言の類はない。後半についてはその通りであるが、前半部分は完全に間違っている。

 先進国の人間が風邪を引く場合、原因は実は「食べ過ぎ」であることが多いのだ。栄養摂取過多で食物をうまく消化できずに身体が不完全燃焼に陥った状態を想像していただきたい。当方にしても、年末遅くまで旨いものを散々食い、散々飲んだツケがまわってきたのである。こうした時に栄養のあるもの食べたら、不完全燃焼状態を長引かせしかしない。野菜・果実ジュースなんかで水分とビタミン類だけ摂っておいて、後はひたすら寝るのが正しい。風邪をひいたら、食事量を減らすことこそ先決なのである。これは、青山正明の名著『危ない薬』(データハウス)にあった話であり、まさか僕も麻薬についての書物で健康法を学ぶとは思いもしなかった。この本は未だに僕にとってのバイブルである。

 しかし、である。以上の話を説いても、誰一人として同意してくれない。一体今の日本はどうなっているのだ(そういう問題か?)。風邪には絶食がよい、というのはそんなにキテレツに聞こえるのかしら。


 元旦夜の食卓を父母と囲む。困ったことに正月なので普段にもましてずらずらずらと旨そうなものが食卓に並ぶ。熱はあるのだが、食欲自体は衰えてない。そこをぐっとこらえて、母親にご飯の量を減らすように要求するのだが、どうも分かってもらえない。

 父親は、紅白歌合戦での美川憲一に対する驚きを熱っぽく語った。小林幸子にも驚かされたが、美川憲一の方がすごかったそうだ。後に村上龍が JMM で全く同じことを書いているのを読んだが、個人的にはモーニング娘の「LOVEマシーン」を見て昭和ヒトケタ生れの親父が腰を抜かさないかと心配だっただけにほっとした。多分モーニング娘の時間は裏番組をみていたのだろう。

 夕食を少量で終わらせ、後は寝るだけなのだが、夕方と同じで気分が悪すぎて寝付けない。熱があるのに発汗がなく、不快感がひたすら内に篭る感じで、寝付いたとしても、どういうわけか二時間と続かず目が覚めてしまう。それを何度か繰り返すとさすがに困憊してくる。時計を見ると深夜だった。居間におりて、ぼんやりとミカンを食す。どうも毎回悪夢のようなものをみて目が覚めるのだが、それがよく分からない。記憶を辿ると、夢そのもの自体はホラーでも何でもないのだが、それから受ける印象がざらついた喉の感触と同じくらい心地が悪い。

 そこでふと、わたしゃどんな初夢をみたっけかな、ということに思い当たり、しばらく思い出そうと努めてみたが全く思い出せない。何が悲しくて一日経ってから初夢を思い出そうとイライラしてるのかね、と情けなくなった。気がつくとミカンを4個も食していた。


 2日も結局午前遅くに起床する。朝から疲れていた。2日のうちに自室に戻る予定だったのだが、それを許すまで体調が快復していないことは明らかである。

 軽い朝食の後、1日の新聞を読んでいると、母親が熱を測れと体温計を差し出す。当然拒絶するのだが、理由を説明してもどうも分かってもらえない。知らぬ間に他の話題が乱入してきて口論になっていた。何が悲しくて正月二日の朝から母親と喧嘩しなければならないのか。ラチがあかないので、「貴様も奴等とグルだな。マルタの鷹は誰にも渡さん!」と叫び、笑いながら階段を駆け上って会話を強制終了させた。熱で気が触れた、と思われたかもしれない。

 再び自室に篭ったはいいが、音を鳴らすと頭痛が加速しそうだし、帰省にはパソコンは持ってこない(というかノートPCやPDAの類を持ってないのでどうしようもない)のでネットにも繋げない。小説を読もうとしても集中力が続かないので、マンガを眺めて時間を潰すことにする。楳図かずおを読んでもどしても困るので、相原コージの「コージ苑」や「サルにも描けるマンガ教室」をチョイスしたのだが、久方ぶりに読んで発見もあった。


 元ネタが分かるのだ。

 何のことだと言われそうだが、初めて読んだときは意味が分からずテキトーに流していた部分が理解できるのだ。例えば、「コージ苑」第三版、「夢野久作」の4コマも、夢野久作の「ドグラマグラ」を読んだ後だと大笑いできる。関係ないが、「ドグラマグラ」は世界的にみても二十世紀文学最高峰の異形の書である。青空文庫にも登録されると嬉しいのだが、量的にも膨大だし、内容的にもサベツだなんだとけちをつける馬鹿が出てきそうだから無理かな。

 他にも「サルまん」に出てくる「二階にインド人がいるんです」ネタもまたしかり(と文章で書いてもわかってもらえないな)。暗黒の大学時代、現実逃避したくてやっていた乱読も無駄ではなかったのか。いや、無駄には違いない。でも僕の中で確かにそれがリンクされ、一歩深い認識に達することができたのだ、大袈裟に書くと。この感覚を味わうと読書は止められない。

 元気が出てきた。そういえば風邪について書かれた回があったな、と思い小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」を探すうち、結局白熱してしまい全巻読み通してしまった。ここでいう全巻というのは、「ゴーマニズム宣言」1〜8巻のことで、1〜7巻は扶桑社版、8巻は双葉社版を所有している。それ以降の「新ゴーマニズム宣言」や「戦争論」などは今のところ一冊も買ってない。

 今読んでも「ゴーマニズム宣言」には勇気づけられる。特に2〜4巻あたりの、問題意識と漫画家としてのテクニックがせめぎあうところは素晴らしく、この頃のゴーマニズム宣言は確かに前人未踏だった。


 思いもしなかったことであるはあるが、元旦からこれまで何度も読んだはずの表現を再発見し、元気づけられている。良い年になる前兆なのかそうでないのか判然としないのだが、ミレニアムだとか何だののお祭り騒ぎと無縁で迎えた2000年の正月、一人寝床でひっそり不快にのたうちながらの年始めである。

 とどのつまり、僕は僕なりのやり方でしか生きることができない。当たり前の話だ。ワタシの場合それがすごくイビツでマヌケなだけだ。それも分かりきった話ではないか。朝起きてやるべきことをやる。そして生きていく。ただそれだけのことだ。そのために僕は何をすべきなのか。もっと知りたいのに。もっと欲しいのに。もっと書きたいのに。もっともっともっと・・・

 いずれにしても、僕のマルタの鷹は誰にも渡せない。


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初出公開: 2000年01月09日、 最終更新日: 2000年11月20日
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