ソースをクローズドにしたコンピューティングの危険性

著者: Alan Cox

日本語訳: yomoyomo


以下の文章は、Alan Cox による The Risks of Closed Source Computing の日本語訳である。

Linux 界において、カーネル・ハッカーとしての著者の名前を知らない人はモグリといって間違いないが、当方は氏のまとまった論説を不勉強にもこれまで読んだことがなかったのでこれ幸いと訳してみた。内容的には ESR の「魔法のおなべ」と重なる部分も多いが、車産業とオープンソースとの類似のさせかたはユニークだ。

本翻訳文書については、武井伸光さんに誤記の訂正を頂きました。ありがとうございました。


商売の世界では、企業はリスクを減らすことが重要になる。そのための古典的なアプローチとして、共有部分を利用し、ベンダに働きかけて標準にすることが挙げられる。成熟した産業には、標準、標準機、そして相関作用がある。もし Dell のような企業がハードディスクの供給に問題を抱えるなら、肩をすくめて別のベンダの製品を調達するだろう。ベンダの独占やそれに関連したリスクから身を守っているのだ。

過去20年以上に渡り、コンピュータ・ハードウェア産業は成長を遂げ、共有産業になった。IBM PC とその互換機はミニコン産業をいともたやすく一掃した。商売としては、このケースは単純な話である。ミニコンを買ったら、アップグレードする限り金を払わねばならず搾取されるしかないのに、PC を買ったなら、ベンダに色々と要求できるのだから。

ミニコンのベンダは、この共有市場が、彼らの勢力を食ってしまうのを阻止しようと必死に手を尽くした。連中は PC をおもちゃと呼び、PC がローエンドの作業にしか適しておらず、本物のコンピュータに取って代わるなんて決して起こり得ない、と主張した。連中は間違っていた。連中は競争力、容量の節約、そして商品価格によって、忘れ去られていく中で踏みつけにされたわけだ。[1]あなた方は、もちろんのこと、そのレトリックに気付かれるだろう。彼らは、ミニコンが PC よりもずっと高速であることを示す疑わしい評価図を発表までした。

どうしてこれがオープンソースに関係するんだって? つまりは同じ状況なんだよ。現在、クローズドなハードウェア戦略にコミットする企業なんてないだろう。そうしたら共有コンポーネントを利用するよりもずっとコストがかかってしまう。同様に重要なのは、そういう彼らがサポートやパーツについて単一のソースに身を委ねているということだ。それならどうして彼らはたった一社のソフトウェア供給者に身を委ねたりするんだろう?

クローズドなソース戦略は、企業を深刻なビジネス・リスクに晒している。多くの電話会社が思い知らされたように、あなた方の OS 供給者が突然あなた方の競争者になることを決定するかもしれないのに。競争他社の電話製品からライセンス料を徴収する OS 供給者が内部で支払うのと同じ値段で済むなんて考えるのは世間知らずというものだ。重要なコンポーネントを競合他社にすっかりコントロールされて生き残れるような企業なんてありやしない。そうしたら金を計画的に搾取されることになり、そして踏みつけにされることになる。

またクローズドなソース環境においては、しっぺ返しなんてものは存在しない。ビッグネームのソフトウェア・ベンダは、他社の誰かがソフトウェアのバグを直す権利を禁止し、同時に問題がいずれ直るという保証を否定する条項でライセンスを埋める。絶対的な権限がバグ修正に関して行使されているのだ。あなたが現在競合他社の人間で、あなたのとこの CEO はベンダに対して何か文句を言ってませんでしたか? 恐らくそれはあなたがバグを直すことができないからだろう。

こけおどしだと思われるかもしれないが、あいにくにもそうではないのである。Alpha CPU 版 Windows NT にコミットしている企業に、現在どう感じているか尋ねてごらんなさい。あなた自身の2000年問題のための支出、つまりあなたにちょっとした2000年問題のバグを直す権利がないために強制されるアップグレードにいくらかかるか考えてごらんなさい。それは数千もの企業が仲良く共有しているコストであって、そのどの企業だって、より強力なハードウェア性能を要求するひどい末端製品にアップグレードするのを避けることができたのに。

オープンソース環境においては、ソフトウェアは修正する権利が認められる。ソースコードは、実際のところ重要な要素ではない。それは公開性の有形文化遺産なのだ。本当に重要な権利は、システムの動作を見て、修正できる権利なのだ。もしベンダがあなたの会社をサポートしてくれないなら、その時は伝統的なビジネス慣習のルールが適用される。つまり競合他社のとこに行くだろう。もしソフトウェアが別のパッケージとうまく相互接続してくれないなら、そのときはそれを解決するための情報が全て手に入る。競合他社の製品とのインタフェースについて情報提供を拒絶するような供給者一社に束縛されることなんてないのだ。

重要な製作環境においては、どんなコンポーネントも二重のソースを確保する。生産ラインで働く人間で、ある日の午後電話をかけてきて、「こんちわ、値段を二倍にしましたんで」とか、もっとひどいのになると、「XYZ 社がうちを買収しましたんで、今後はおたくの面倒はみきれません」とか言ってくるような唯一の供給者に賭ける危険をおかす余裕のある者なんていない。複数の供給者か、もしくは潜在的な供給者を確保しておくものだ。もし、一方が多額の金銭を要求するなら、供給者を変更すればよい。しっかりと言葉によるコンタクトをとっていれば、一社の供給者でも大丈夫かもしれない。しかしながら企業がそれをやったら破産するだろう。もし契約に関する論争により法廷行きになれば、パーツの供給が再開する前に商売あがったりになるのもいたしかたない。

同様に、製作環境においてもそうした中断時間は受け入れられない。企業は強力なサポートが保証されることを必要としている。しかし他のものも必要としている。それはサポートを複数のソースで確保することである。もしベンダが無能なメンテナンス技術者を寄越すようなら、別のとこに変更できなくてはならない。車を買ってもその土地のガレージが用をなさないなら、別のどこかに替わりのガレージを用意することになるように。

多くの場合、自動車はオープンソースモデルが別に革命的なものでないという事実を示すとても優れた例になる。ボブ・ヤングも鋭く指摘している通り、それは殆ど全ての成長中の産業において適用されるモデルなのだ。

あなた方は複数のベンダから選択して車を購入できる。ベンダは基本的にはどこも同じようなものだ。あなた方は幾つかのベンダから特有の特徴の情報を仕入れ、こうしたベンダは、別のベンダでなく自分達の車を購入するように説得するだけの納得できる品質を保証する。言い換えるなら、彼らはブランドネームを所有しているのだから、せめてものものを提供しなければならないのだ。

あなた方はベンダの車をどこへでも走らせることができる。大した再学習なしに別のベンダの車に乗り換えることができるし、それは Linux ベンダの変更においても同じようにできる。巨大で不自然な故意の障壁は何もない。

あなた方はまた、自身の車を修理もできる。個人でやって、こうした修理を安い値段であげたいと思うだろう。車をいじるのが楽しいなら、自分で修理したっていいのだ。企業環境においては「所有権の総コスト」といった言葉をつかい、車を修理する人達に支払いをする。それでも、どこで修理をやってもらうか選択できる。そうでなくても、将来的に何の問題もなしに別の車種を購入できる。もし問題があるようなら、サービスを提供する別の供給者に乗り換えればよいのだ。オープンソースの世界でそうするように。

別の興味深い類似が認可に関する事例に見られる。殆どの人々は優れた車の修理工とひどい修理工を区別できない。コンピュータに親しんでない人達の殆ども、優れたソフトウェア技術者とそうでない技術者の区別がつかない。車の製造業者は、標準として十分に高度なサービスを提供していると感じる企業や個人に信任状を与える。彼らが認証する品質を保証するレベルのものにその名称を付与するのだ。もしフォード公認のディーラーに失望したなら、フォードを非難するだろう、ディーラーだけでなくね。Linux 界においては、Red Hat 認定技術者といったものがあって、認可されたサポートパートナーを得られる。

もし優れていて安い値段で済む修理工をたまたま知っていれば、そこを利用できる。身近で優れた車修理工を見つけた人達は、そこにとても義理堅くあり続けるだろう。もし身近で優れた Linux サポート業者をたまたま知っていて、身近な触れ合いや、あなたについてこれまで扱った事例の履歴を本当に覚えていてくれる人と対面して相談できることを好ましく思うなら、あなたはその選択を気に入るのが当然だ。オープンソース界においては、彼らは単に相談するだけよりもずっと多くのことをやってくれる。大手ベンダと同じようにソースコードにアクセスし、修正する権利をもつのだから。

多くの人々が、価格とともに信頼性の面でオープンソースに優位性があると語っている。実は皆がそれをすることによる最大の優位性を見逃しているのだけど。オープンソースは成長する市場における共有製品なのだ。それは競争であり、選択であり、消費者の手に力を与えることなのだ。

オープンソースの世界では、誰もあなた方顧客に脅威を与えて要求を押し付けるなんてことはしやしないのだ。


[1] 議論の本筋から離れるが、Beowulf クラスタが余りにも劇的に成功した理由の一つは、それがクローズドなメインフレームのハードウェアを標準的な PC 構成に置き換える、オープンソースソフトウェアの集合であることだ。Beowulf は、かようにして独占的な競合他社に二重の打撃を与えているわけだ。既存のメインフレームの独占を破壊し、ソフトウェアの独占も破壊している。

クレジット

この論説の多くが、ソフトウェアの共有化と、大企業が、ソースが一つしかないソフトウェア製品にコミットして潜在的な競合他社と対するリスクについての Jamal Hadi Salim との議論におけるボブ・ヤングの意見を聞いた後で浮かんだ考えに依っている。

リチャード・ストールマン(「オープンソース」という用語を使うのを大目に見てくれるといいのだけど)とエリック・レイモンドの両者が、以上の考えの見地を提唱してきた。エリックはリスクの方にフォーカスする傾向があり、オープンソースが共通の利己主義となるモデルを提唱している。リチャードの方は、共同作業によりフォーカスしたモデルを提唱している。両者のいずれが正しいのか(それどころか二人が同じことを言っているか)というのは興味深い質問だが、それはこの論説に関連したものではない。


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初出公開: 1999年11月07日、 最終更新日: 2004年04月29日
著者: Alan Cox
日本語訳: yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)
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