著者: Eben Moglen
日本語訳: yomoyomo
以下の文章は、Eben Moglen による When Code Isn't Law の日本語訳である。
著者である Eben Moglen はコロンビア大学教授であり、FSF の General Counsel でもある。本文は、彼が LinuxUser magazine に連載しているコラム "Free Software Matters" の中の一編である。タイトルからも分かる通り、先ごろ「CODE――インターネットの合法・違法・プライバシー」として邦訳が出た Lawrence Lessig の "CODE and other laws of Cyberspace" を意識した内容になっている。フリーソフトウェアはコードに対する規制を弱める(場合によっては無効化する)ため、現場レベルにおいては、 Lessig の規制論は現実化しないの ではないかという意見を説いている。
本翻訳文書については、小野剛さんに誤訳の訂正を頂きました。ありがとうございました。
僕は大抵の時間を、インターネット社会における法について文章を書いたり、教鞭をとるか、さもなくばフリーソフトウェア運動に関する法的戦略を実践する提案や支援をするのに費やしている。Linux ユーザなら、フリーソフトウェアが、独占的ソフトウェアでは稀なレベルの品質に達し、どんな個人ユーザや中小企業でも買うことのできる価格で、信頼性の高い最先端の技術を提供していることはご存知だろう。しかし、そこに留まらず、フリーソフトウェアは、世界規模のインターネット社会が、これからの25年間直面する最大の法的、かつ政治的な問題の中心に位置してもいる。
我々はしばしば「インターネット」というものを、それがあたかも一つの事物や、一つの場所であるかのように論じるが、「インターネット」を社会的状態に付けられた名前と考えたほうが、ネットが呈示する法的、政治的問題をよりよく理解できる。それはすなわち、ネットワーク化された世界の一部に住む誰もが、今では他の誰とでも直接、間に入るものなく、大変多くの人とほとんど無料で意志疎通ができるという事実である。誰もが他の誰でもとつながる社会は、過去存在したいかなる社会とも違っている。常にあらゆる場面で正しいと思われていた、これまでの社会的、経済的な法則や事象の「原理」は、もはや通用しない。
フリーソフトウェア -- Linux カーネル、GNU Emacs、LaTeX、Apache、Perl、そしてあなた方がいつも利用している他のツールなど -- は、この広範囲に相互連結した社会において、伝統的でない生産方法が驚くほど効果を上げているため、生き続けている。多数のプログラマーが、階級的な組織に束縛される必要なしに、巨大なプロジェクトでたやすく共同作業できている。誰もがバグを発見し、修正することで参加でき、誰もがそうしたすべての修正をただちに受け入れることが可能で、そのためフリーソフトウェアの品質は、営利的な独占的製造メーカにおいて、限られた人数の開発者とテスターによって作られるプログラムの品質よりも、ずっと高いものになりうる。
一見したところ、フリーソフトウェアは市販の独占的ソフトウェア企業に対して問題提起をしているように見える。確かにそれは独占的ソフトウェア企業にとって問題である。誰もがコストをかけずに、複製、利用、改良、そして再配布することが可能な優れた製品と競争することを学ばなければならなくなるからだ。だが、その先にはもっと深刻な対決の構図が待っている。
「サイバースペース」と呼ばれる場所としてネットをとらえるのでなく、ちょっとの間ネットをパイプやスイッチの集合体だと考えてみよう。情報は多種多様なパイプを流れ、スイッチによって方向転換され、特定の宛先に送られる。誰がどの情報を、どの程度の公開性をもって取得するか、そして -- どちらかといえば -- スイッチの下流にいるユーザはその情報を受信するのに何を支払わなければならないかは、スイッチが決定する。あなた方にとって、最も重要なスイッチとなるのは、あなたの目玉と鼓膜に最も近いところに位置するスイッチである。それがあなた方の求めるテキストやビデオを表示し、音楽を鳴らし、ボイスコールやビデオ会議を伝送する、などなど。
しかし、あなた方の最も近いとこにあるスイッチをコントロールしたいと思う人達もいる。彼らは、例えば、あなた方が音楽を聴いたり、映画を観たりする度に料金を支払わなければならないような音楽配信、映像配信が可能になることを望んでいる。音楽や映画を複製することや、そうした複製物を他人に与えることを非合法にすることで、著作権法は既に彼らを保護している。しかしネットの世界においては、複製にコストはかからず、すぐにどこにでも転送できるので、独占的メディアのディストリビューターは、法による保護が十分でないと考えている。彼らからすれば、あなた方のコンピュータが、自分達がネットを通じて配信したばかりの音楽を複製できないようになることを望んでいる。ハーバード大学の Larry Lessig 教授の言葉を借りれば、彼らはコードを法の代わりにしたがっているのだ。
独占的ソフトウェアの世界では、ユーザは自分自身のスイッチを管理することがない。それをソフトウェア製作会社が行うのだ。もしマイクロソフトが、Windows Media Player について、ハードディスク上にストリーミング・オーディオを保存できないようにしたら、ユーザがその決定を変えることはほとんど不可能である。
しかし、フリーソフトウェアは、どんなユーザでも変更可能なコードなので、それ故に法の代わりに使うことはできない。またフリーソフトウェアが独占的ソフトウェアにとってかわることがしばしば起こっているので、独占的プログラムにより決められた「法」を取り消すのに、破壊的な役割を果たし得る。フリーソフトウェアのブラウザなら、ウェブページから広告を取り除くことができ、フリーソフトウェアの DVD プレイヤーなら、コマーシャルを早送りさせることもできる。フリーソフトウェアのメディア・プレイヤーがあれば、放送中の音楽や映像を保存できるよう修正を加えることだってできるのだ。「誰がスイッチをコントロールするのか?」それこそが、インターネット社会において最も重要な法的、かつ政治的な問題なのである。フリーソフトウェアに関して言えば、それは個々の我々である。だから時には「コードが法」になり、時にはコードが自由になる。それが多くの複雑な法的問題を助長し、フリーソフトウェアがネット政治における争いの中心に位置しているので、既に数人の人間が法廷で争っているし、そうした人間を翌年や二年後には、ずっとたくさん見ることになるだろう。