著者: Joey Tyson
日本語訳: yomoyomo
以下の文章は、Joey Tyson による You Are Not the Product の日本語訳である。
「何かにお金を払ってないのなら、あなたはそこの顧客ではない――あなたの方が売り物の商品なのだ」
この格言は、オンラインプライバシーの議論、特に Facebook に関連してよく言われるものである。僕が最初に聞いたのは、ブルース・シュナイアーが2010年のはじめに言ったものだが、その後アンドリュー・ルイスによる Metafilter の投稿がこの特徴的な言い回しのソースとしてよく言及される。歯切れが良い言い回しで、簡潔かつ記憶に残る形で主張を通している。僕でさえ、この数年間で何度も引用しているくらいだ。
でも、それは間違っている。
これは僕が現在 Facebook の社員というだけで言うのではない――実際、この見方に対して僕が懐疑的になったのが、僕がカリフォルニアに移る前なことを Twitter で僕をフォローしている人なら思い出してくれるだろうか。またこの言い回しに反論するからといって、Facebook や他のソーシャルネットワークサービスは自動的にプライバシーや利他主義の砦になると言おうとしているわけではない。
そうじゃなくて僕が論じたいのは、オンラインプライバシーを巡る議論は、正確でまっとうな仮説と解説のもとで行われるべきということだ。簡潔さはコミュニケーションにおいてポジティブだしとても効果的だが、概念や論拠を単純化すると、その要約を過度に単純化してしまう危険がある。もし Facebook を批判するのなら(僕も多くの場面でそれをやってきた)、そのサービスに対する懸念を現実的にとらえた主張をするのが重要だと思う。藁人形論法は議論を脱線させ、批判の特徴をぼやけさせ、最終的には問題の解決の妨げになりかねない。
だから今なお人身売買という悲劇的な不法行為と戦わなければならない世界において、「あなたは商品だ」式のレトリックは役に立たないだけでなく、不愉快なほど尊大だと思うようになった。いくら意図しないとしても、そのレトリックはソーシャルネットワークサービスを人権を踏みにじる者たちと比較し、特権ユーザと現実の奴隷を不当に同一視もすることで、ソーシャルネットワークサービスを悪者扱いしている。
その点を念頭に置いて、「あなたは商品だ」という言い回しの背後にある感情を明確にしてみよう。結局のところ、あなたが運営コストがかかるサービスにお金を払っていないのなら、明らかに誰かが何かにお金を払ってそのサービスを可能にしている――ならば Facebook や Googleや他の無料ウェブサイトの営利運営者は何を売っているのか?
僕の意見を述べる前に、一つ正しくない答えについて反論したい。それは、一例を挙げるなら Facebook はあなたのデータを売ってはいないということだ。
こう考えてみよう。もし Facebook がユーザのデータを売っているのなら……それはどこで買えるだろう? 各種ターゲット層で集計されたオンラインデートサイトの調査結果など、データを販売するオンライン市場は容易に見つけられる。しかし、これらの会社のどこも Facebook から入手したデータを販売していないし、Facebook も独自のデータ市場を持ってはいない。
もちろんあなたは Facebook に載せる広告を買えるし、その広告は高度にターゲットを絞ることが可能だ。ユーザが広告をクリックすれば、広告主はそこで暗黙のうちにユーザについてのなにがしかのデータを受け取ることになるとも言える。もし僕がアメリカの30歳以上の男性に向けた広告を置けば、僕にはそれをクリックする人の国籍、性別、そして大体の年齢層が分かるわけだ。しかし、これはある企業が Facebook にお金を支払って、その企業が Facebook 上に配信するメッセージに納得した後に自発的にその企業と情報のやり取りをする選択をした人たちの特定のデータを受け取れるということだ。僕の観点からすれば、この情報の流れを Facebook が「あなたのデータを売っている」と表現するのは、もう一度言うが、状況を過度に単純化するものだし、ウェブにおける企業の事業のあり方についてユーザに対して事実を曲げて伝えている。あるマーケット担当者は Facebook に小切手を書くだけでその人のデータを受け取れるという歪められたイメージを人が信じてしまうと(このシナリオは、「あなたのデータを売っている」という主張からすぐに結びつく)、それにまつわる Facebook についてのどんな議論も、その誤った描写の影響を受けることになる。それは人々を Facebook に敵対しやすくするかもしれないが、オンラインプライバシーやユーザが可能なコントロールについてのより理性的な対話を不可能にしてしまう。
ここで一つ前の疑問に立ち戻ると、Facebook は正確には何を売っているのだろう? 僕の答えは、オーディエンスだ(更新:より明確にしておくと、僕は「オーディエンス」という言葉を、話を聞く実在の人たちというより、「意見を聞かれる機会、人や集団の前で話をする機会、意見聴取」という意味で使っている)。
Facebook はある種の仲介者である。Facebook は潜在的顧客に宣伝を届ける機会を企業に提供する。広告主は自分たちのメッセージに最も適していると考える人物像を示すが、Facebook はユーザのデータを基にそのプロフィールにどのユーザが適しているか把握している。けれど、この最初のやりとりは、ユーザが広告をクリックする選択をするまでそのユーザについて何も情報を明かすことなく行われる。よって Facebook はユーザについてかなりのデータを保持はしているが、ユーザが他のサイトなりサービスと情報のやり取りをする選択を行うまで、そのデータのほとんど全部が Facebook に留まることになる(「Instant Personalization」機能は例外の一つだが、それでも非常に限られたデータしか転送されないし、そのデータはすべて既に全体公開に分類されているものである)。
それに無料サービスを支えるために広告主にオーディエンスを売るというのは、ウェブサイトで始まったものではない。例えば、テレビネットワークは何十年も類似のビジネスモデルを採用してきた。「あなたは商品だ」という格言が本当なら、それは同じようにテレビ放送にも当てはまる――なのにオンラインサービスに関連してでしかこの問題は持ち出されないようだ。後者を目立たせるのは、Facebook などのサイトはテレビ局がこれまで視聴者について所有してきたものよりも個々の訪問者についてずっと多くのデータ、しかもより純度の高いデータを所有しがちなところ――そして訪問者一人一人のユーザ体験を高度にカスタマイズできるところだ。
それでも、売りつけられるのと実際に売られるのとは全く異なるし、その区別をすればさらなる疑問について価値ある議論を行う扉が開かれる――が、オンラインプライバシーに関して生じかねない複雑な問題を理解する正確な枠組みが背景となる。僕は上で過度の単純化について警告したが、ことによると最初に挙げた格言を「何かにお金を払っていないのなら、誰かがあなたに買わせたいということだ」という風に言い換えるだけかもしれない。
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