From: yomoyomo Date: Fri, 29 Oct 1999 08:21:40 +0900 To: 上野 Subject: Re: 今更ながら「今更ながら宗教の話で何ですが」で何ですが 上野様 yomoyomoです。早速のリプライありがとうございました。 >さて舌足らずだったのはyomoyomoさんの結論に関しては(宗教に必要なのは普遍性を持っ >た方法論である。の部分です)非常に高く評価していると言うことです。宗教に関し >て考えていないと書きましたが、とてもそんなことは言えません。深く考えた人間の >鋭い洞察です。それでなんで考えていないなどと書いたかは後で説明差し上げます。 >この部分で一番目の「なぜか」は教祖論にシフトすることが「なぜ」なのではありま >せん。なぜ選民思想に触れて、それを置き去りにしてしまうのかと言うことです。 上野さんからの先日のメールを読んで、僕の文章の結論の部分にしろ高く 評価して下さっていたとは僕には想像すらできなかったことですが、「舌 足らずだった」と書かれたおられますから、ここでは置いておきます。 >とお書きになっていますが、個々の部分は >1教団の人間が持つ選民思想は危険 >2無知は罪である >3彼らに必要だったのは方法論の有無を見抜く事である >となると思うのですが、なんにせよその方法論は信者を選民意識に導くのではないで >すか?これでは選民思想に触れたことが却ってその後の論の展開の足枷になってしま >います。 なるほど! そうですね、僕の論の展開では不十分ですね。自分達が獲得 ・選択した方法論が選民思想につながってしまうという十分起こりうる問 題を置き去りにしてます。それでは本当に議論が先に進んだことになりま せん。 ようやく上野さんが選民思想にこだわった根拠が分かったように思います。 >原始キリスト教と言う言葉は一世紀末から二世紀の初頭辺りまでの、主に十二使徒達 >を中心としたローマ、ギリシャ方面への布教時代を指す言葉です。イエスの時代には >キリスト教は無く(キリスト自体がギリシャ語です)、ユダヤ教の一派でした。また、 >新約聖書は一世紀中葉から二世紀半ばにかけてかかれたものだそうです。当初に現世 >利益が求められたのではなく、死後、後世になってつけたされたのです。 うーん、そうなのでしょうか。確かに新約聖書として形を成した時点で付 け加えられた逸話も多いのでしょうが、イエスが生きた時代のユダヤ人も 現世利益が求めていた、と僕は理解していたのですが。 当時のユダヤ人の宗教感情は(ガリラヤ地方に限らず)反ローマ・ユダヤ 独立の気分と結びついており、イエスの弟子達にしろ彼に政治的な指導者、 当時のローマに迎合的であった(サドカイ派、パリサイ派の)ユダヤ教の 改革者を求め、イエスのもとに集まった信者にしろ同じようなもので、政 治的な指導者か、そうでなければ自分達の苦境を(お手軽に)解決してく れる救済者を望んでいたのだと思います。 それが水を酒に変えたり、盲人の目を見えるようにしたり、といった奇蹟 話にあらわれていると思うのです。当然それぞれに象徴的な意味合いがあ ったり、後世に付け足された話だったりするのでしょうから一概に言えま せんが。まあ、元々が主催者側発表ですから(笑)。 しかし、イエスが体現しようとした宗教者としての姿はそうした期待とは 異なったわけで、そのために信者に見捨てられ、そして十字架にかけられ、 そのとき弟子達もまた同様に教祖を一度見限ったのだ、と解釈していまし た。政治的な指導者は現世利益とイコールとは言えないのでしょうが、弟 子も信者も自分達に都合のよい救世主を求めていた、という。 >この時代はパウロをはじめとする使徒とその後継者たちがローマやユダヤ人達に迫害 >に会いながら「狂信的に」布教を広げていった時代です。そこには既に不条理に対す >る愛という形での方法論は存在しました。狂信性は既に方法論と結びついていたので >す。 >また、布教が広がった理由の一つには初期キリスト教徒たちが熱心に社会活動を行っ >たからだと言うのもあります。社会活動をさして普通現世利益とは言いません。ご利 >益ってもっと自己中心的な要請に対する奇跡のことですよね。 そうですね、初期キリスト教徒が「愛」という方法論を持ちながら、死 を賭した「狂信的」な活動を行ったという上野さんの指摘は僕の文章に 欠けていて、しかも持っておくべき視点でした。確かに狂信性は方法論 と結びついてますね。 >ただ >『元々オウムは仏教系の宗教であるが、その狂信性については、彼らの犯罪を除いて >みても誰もが認めるところであろう。しかし、ここで問いたいのだが、それが例えば >原始キリスト教のそれとどこが違うのかということだ。』 >と書かれていますが、 >1オウムの人間は狂信的であり、それは古典的な宗教であるキリスト教でも同じであ >る。 >2狂信故に本質的に宗教は危険性をはらんでいる。(同感です) >3問題は人間の生に対する方法論を持っているかどうかに帰着すべき >との展開に対しては、まだ疑問が残っています。 >方法論の有無は狂信のもたらす危険性に関与し得ないと思うのですが。 ここまで来ると上野さんが僕の文章に持たれた苛立ちが理解できるような 気がします。 方法論の有無で一件落着させてはいけなかったですね。それを持ちながら 狂信性を持ってしまうことは歴史が証明してます。オウムを手がかりにで きるかぎり普遍的な、広がりのある文章を書きたかったのですが、実際は オウム真理教の方法論のなさ(これは僕の解釈であり、いろいろと意見は 出るでしょうが)を無意識的に拠り所にしていたのだということ思います。 >余計なお世話ですか、失礼しました。実を言いますとここだけはまだ良くわかりませ >ん。整理がついていないのですが、批評とはそもそも余計なお世話な物でしょう。文 >の良し悪しだけでなく、その背景に触れられるものなのではないのですか。 余計なお世話というのではありません。自分の文章のどこがおかしいのか 知りたいという欲求を強すぎてああいう書き方になったのだと思います。 たとえて言うなら生徒の心境でしょうか。 宗教について特別勉強したこともないし、オウムオウムと騒がれた時節も ちょっと過ぎたけど、とにかく自分なりに愚直でもいいから答案を出して みよう(=Web上に公開しよう)。そうすれば先生(=自分よりも宗教に 正確な知見を持った方々)に意見を言ってもらえるだろう、と。 そして上野さんに厳しいご意見をいただいた訳です。そのときの心境とし ては、自分の答案が大したレベルに至ってないことは文章を書いた時点で それなりに自覚できてはいたので、「うーん、やっぱりそうか」というの が正直な感想でした。 ただその採点の理由がどうしても分からなかったので具体的な指摘を求め てしまったのですね。変な表現になりますが、上野さんの評価自体には余 り疑問を持たなかったのです。それだからこそ具体的な欠点を聞きたかっ た、ということです。 >大上段に構えて公表、解体、批評の自由を謳ってきましたが、到底そのレベルに達す >るものではありません。勿論この受け取られたメールを晒し者にするもどうも、権利 >はyomoyomoさんにありますが私自身にあのような口上を述べるだけの力量はありませんで >した。 いえいえ、ここまで来てようやく自分の文章の難点を幾らか理解できたよ うにも思いますし、良かったと思います。 上野さんはメール中の表現を気になさっているようですが、その必要はな いと思います。コミュニケーションというのは本質的には余り愉快でない ものだと思いますから。Webに自分の文章を公開するということは、それ を引き受ける意思表示をしてるわけですから遠慮はいりません。 批評を受け止め、自分を変えていく覚悟のない人間はウェブページなんて 持つべきではないのです。 ただ僕にしてもオープンでいたいと心がけてはいますが、それほど出来た 人間ではないわけで(実際にはその反対!)、今回のやり取りで自分の我 慢強さを試された側面があるのは否定しません。 晒し者というのでは当然ありませんが、このやり取りは公開したいところ です。骨のある批評を実は書き手として切に求めているのですが、これが 意外に少ないのです。上野さんとのやりとりは一つの規範にもなるでしょ うし、それを読んで当方の文章に物申そうという人が増えたら、と思いま すので。まだちゃんと決めてはいませんが。 正直なところ、上野さんにメールを書くことでかなり精神的なリソースを 使ったところがありますのでそれを無駄にしたくない、という気持ちもあ ります。僕なりに納得のいく形で意見のやり取りができたと思いますし。 これからも当方の文章に対し忌憚のない意見をお待ちしてますので、よろ しくお願いします。 それではありがとうございました。