ウェブログの倫理

著者: Rebecca Blood

日本語訳: yomoyomo


以下の文章は、Rebecca Blood 著『The Weblog Handbook: Practical Advice on Creating and Maintaining Your Blog』の第6章の一部 Weblog Ethics の日本語訳である。


ウェブログはオンライン世界の一匹狼である。広範に分散するオーディエンスに、情報を選別しつつ広めるのが可能なことと、マスメディアの主流の外側にいられる立場の二つが、ウェブログの最大の強みである。ウェブログは、誰の恩義も受けず、独自の気紛れな基準に従ってリンクし、論評を行い、情報を広める。

ウェブログのネットワークが持つ潜在的な影響力こそが、メインストリームの報道機関がウェブログ現象を研究し出している真の理由なのかもしれないし、それが恐らく、ジャーナリズムとしてのウェブログについて報じるのが多いことの根底にある。ウェブロガーは自分達を管理することや自分達の影響力について考えないかもしれないが、商業メディアはそれを考えている。マスメディアは、何においても広範なオーディエンスを獲得しようとする。プロの出版、放送の命脈となる広告収入は、そのメディアが獲得したオーディエンスの数で決まるからだ。ビジネスの見地からすれば、媒介となるものが紙であれテレビであれ、コンテンツは読者の目をスポンサーに向けさせるためだけに存在している。

ジャーナリスト――実際にニュースを報道する人達――は、宣伝を行う義務がある企業や実力者からの支援に頼るシステムにつきものの、システムが悪用される可能性をよく知っている。彼らの倫理基準は、ジャーナリストの責任を線引きし、報道の健全性を保証する明確な行動基準を提示することを目的としている。

報道を職業としない人達によって作り出されるウェブログにはそうした規制はないし、また個々のウェブロガーは自分達がアマチュアの地位にいることにほぼ満足しているように見える。「我々に厳しく事実関係をチェックする人間は必要ない」というのがよく見られる意見で、あたかもその杜撰さが美徳であるかのようである。

ここで根本的な意見を述べさせていただきたい。ウェブログの最大の強み――検閲を受けず、間に入るものがなく、規制されない言論である――はまた、その最大の弱点でもあるということだ。報道機関は結局のところ広告収入に縛られるのかもしれないし、また報道記者には、輪の中に留まるために自分達の情報源と良い関係を保つことへの強いインセティブが存在するのかもしれない。しかし、給料を支払い、スポンサーを満足させ、そしてオーディエンスを魅了し獲得するビジネスなのだから、プロの報道機関は、読者が購読を継続し、スポンサーが広告枠を買い続けるように一定の基準を維持することに強い関心を持っている。ほんの少しの出費しかかからず、大きな利益を上げることなどまず望まないウェブログではそうしたインセティブは生じない。

プロの報道機関に妥協を強いる可能性のあるものまさにそれこそが、同時に一定レベルのジャーナリスティックな基準を保つインセティブでもあるのだ。またウェブログを既存のものにかわる新しいニュースソースたらしめるもの――監視者不在、あらゆる責任からの自由――まさにそれこそが、その健全性を危うくし、結果としてその価値を傷つける可能性がある。ウェブログが数を増しその形式への認知が広がるにつれ、ほぼ確実にウェブログは更に大きな影響力を得ることになるだろう。一部の人達が断言するように、ウェブログのネットワークが誤報を伝播するというのは正しくないが、広範囲に及ぶ問題意識によって常に真実が選別されるというのもまたしかり。話を伝えるのが楽しいから噂は広まるのだ。実世界にしろオンラインにしろ、噂の訂正が大きな影響力を得ることは稀である。噂を訂正するだけじゃあまり楽しくないもの。

ウェブログ界において、倫理について語られることはほとんどなかった。一匹狼というものが、為すべきことを指図されるのに抵抗するのは周知の通りである。しかし、私はあらゆる種類のオンラインパブリッシャーが守るべき倫理的行動の条件だと考える、六つ一組からなる規範を提案したいと思う1。ウェブログコミュニティが以下に概略を示す原則を思慮深く検討してくれることを願っている。やがて経験を積んだコミュニティが、規則を追加したり、規範を一層体系化する必要性を見出すかもしれない。少なくとも以下の原則が、我々の責任と我々の集団的行動がもたらす副次的な影響に関する議論を促進すればと思う。

ジャーナリストの倫理規定は、ニュースを報道する際の公平性と正確さを確かなものすることを目指している。それと比較すると、以下の提案はどれも、ウェブロギングを実践する際のあらゆる局面に透明性――ウェブログの際立った特徴、最大の強みの一つ――をもたらそうとするものである。あらゆるウェブロガーに公平な世界像を提示するよう期待するのは現実的でないが、情報源、偏向、そして品行について率直であるよう求めるのはとても利に適ったことである。

私の意見がどうであれ、ジャーナリストとしてみなされることにこだわるウェブロガーならば、以下の原則に忠実であることに特に関心があるだろう。全般的に見れば、ウェブログが情報の収集や伝播を行う際の健全性と、それらの情報のオンライン上の扱いの一貫性を明示する限りにおいて、報道機関もいつかはウェブログ(やウェブログのエントリ)を進んでまともな情報源として取り上げるようになるのかもしれない。

プロのジャーナリストの特権と保護を認められることを望むウェブロガーならば、以下の原則より進んだ行動を取る必要がある。権利というものは、責任と結びついてきた。つまるところ、それは個々のプロ意識と、社会の目と法律に照らし合わせてその地位を決定する、社会に認められた倫理基準を正確に遵守することにある。そこまで望まないのなら、以下の基準を満たせば十分だと私は思う。

1. 真実だと信じることのみ事実として公開する

記述が推測であるのなら、そう述べること。何かしら正しくないところがあると考える根拠があれば、そのエントリを載せないか、さもなければ但し書きを付けること。何か主張する場合は、誠意を持って行うこと。つまり、あなたの知る限りにおいて、事実であることのみ事実として述べよということである。

2. マテリアルがオンライン上にあるなら、それに言及する際にリンクする

言及するマテリアルにリンクすれば、読者はあなたの意見が正しいか自分で判断できるようになる。賛同する意見のみ選んでリンクするのはごまかしだ。オンラインの読者には、可能な限りあらゆる事実にアクセスできるようにすべきである――そうすれば、ウェブは読者を受動的でなく能動的な情報消費者にする力を持つ。さらに言えば、情報源となるマテリアルへのリンクは、情報と知識からなる広大で新鮮で全体的なネットワークを作成する手段に他ならない。

書き手として言及はしたいが、道徳的に不適切(例:ヘイトサイト)だと思うサイトにトラフィックを飛ばしたくない場合も稀にあるが、その場合はそうした不愉快なサイトの名前かURLを(リンクせずに)直書きし、そうした理由について説明すべきである。こうすれば、興味を持った読者が自分で判断を下すのに必要な情報を提供したことになる。このようなやり方で、卑劣だと思う運動に力を貸すことを拒否しながらも、同時に書き手としての透明性を守ることが可能になる。

3. 誤報があれば公に訂正する

虚偽の記事をリンクしてしまったのに気付いたら、そのことを公表し、より正確な報道をリンクすること。あなた自身の意見の中に不正確なものがあることが判明したら、間違っていたことを認め、正確なところを書くこと。理想的には、こうした訂正はウェブログの最新の記事の中で、元のエントリに注記を加える形でなされるのが望ましい(検索エンジンは、記事が投稿された時系列に関係なく記事を収集することをお忘れなく。つまりいったん記事がアーカイブに入れば、例えあなたが数日後に情報を訂正したとしても、その誤った情報が広がり続けるかもしれないのだ)。以前書いたエントリに訂正を加えるのに気が進まない場合でも、少なくとも後の投稿でそれについて言及すること。

訂正を行う分かりやすいやり方に、Boing Boingウェブログの寄稿者の一人であるCory Doctorowにより採用されているものがある。彼は誤った情報に横線を引き、それにすぐ続けて訂正分の情報を続ける。読者は一目でBill Coryが最初に書いたことと、より正確だと思う情報に更新したものの両方を見ることができる(HTMLファイルには次のように書く:読者は一目で <strike>Bill</strike> Coryが最初に書いたことと、より正確だと思う情報に更新したものの両方を見ることができる)。

4. 後で変更する必要がないようにエントリを書くこと。またそうする場合もリライトしたり削除するのでなく、エントリを追加すること

エントリは慎重に掲載すること。どのエントリにも目的意識を持って時間を注げば、あなた個人の、また専門家としての健全性は保証されるだろう。

エントリを変更したり削除したりすると、ネットワークの健全性を破壊してしまう。ウェブは接続されるべく設計されている。実際、ウェブログのpermalinkは、他の人達がリンクするために設けられている。ウェブ上のドキュメントを論評したり引用する人は誰でも、そのドキュメント(やエントリ)が変更されずに保持されることを前提としている。補遺を追加するのが、ウェブ上のいかなるところにあるいかなる情報についても、訂正を行う好ましい方法といえる。補遺を追加するのが現実的でないならば、変更を行った日付とその性質について簡潔に記述して変更を行うべきである。

これを几帳面過ぎると思うなら、ある主張を支持するオンライン上のドキュメントに言及する書き手のケースを考えてみることだ。もしそのドキュメントが変更されたり消失したら――特にその変更についての記述がないなら――その書き手の主張は無意味になってしまうかもしれない。書籍なら内容は変わらないし、新聞の記事内容は固定される。紙媒体ならば、新版では必ずその旨が表記される。

公開するものの履歴をつけ続けることで健全性を保たなければ、我々が構築しつつある共有知のネットワークは、ちょっと目新しいもの以上の存在には決してなり得ない。事情が変わることで的外れな内容になっている記事も歴史的記録として残ることで、そのネットワークは価値を生む。例を挙げよう。あるウェブロガーが、オンライン上の記事の間違いに文句を付け、その記事の著者が指摘された間違いを訂正したとする(そして訂正したことをちゃんと注記する!)。そうなるとウェブロガーのエントリは意味がなくなる…のかな? エントリを削除するのでは、その一連の出来事全部がなかったことを認めてしまうことになる――しかし、実際にはそうしたことがあったのだ。記事の著者が訂正を行い、現在はそのウェブロガーが知る限り記事が正確であることを元のエントリの下部に注記すれば、その記録はより正確なものとなり、履歴は価値を増すことになる。

歴史は書き換えられる可能性があるが、なかったことにはできない。言葉を変えたり削除するのはウェブでは可能だが、それができることが、必ずしも良いわけではない。公開する前に考え、自分が書くことの責任を負うこと。間違っていたと後になって判断するなら、それを明記してから先に進むことだ。

私の場合、例え後になって意見が変わるとしても、その責任を負う用意のないことは決して掲載しないようにしている。特定の話題にどんなに腹を立てたり興奮したりしても、深く考え正確であるよう努めている。一日や二日して意見が変わったなら、ただその変更について記す。自分が言ったことについて謝罪する必要があるならばそうする。

誤った情報を投稿してしまったのに気付いたら、自分のウェブログでそのことを公に述べなくてはならない。目障りとなるエントリを削除しても、読者が既に読んでしまった誤った情報を訂正することにはならない。元のエントリに訂正を加えるという手順を踏めば、そのうちGoogleが正確な情報を必ず配信してくれる。

このルールにおける唯一の例外は、あなたが他の誰かの個人情報をうっかり明らかにしてしまった場合である。秘密を侵害したり、知人への言及によりその人に不愉快な思いをさせてしまったことに気付いたら、問題となるエントリ全体を削除するしかないが、そうしたことを注記すること。

5. 利害の衝突があれば開示する

大部分のウェブロガーは、自分達の仕事や専門分野についてかなり率直である。最新のオペレーティングシステムの長所を扱った雑誌記事を分析する場合、コンピュータプログラマとしての専門知識があると、その論評に特別な重みが加わる。ウェブログのオーディエンスは信頼の上に築かれているので、しかるべき場合には金銭的な(もしくはその他の衝突する可能性のある)利害関係を開示することが、どのウェブロガーにとっても利益になる。アントレプレナーであれば、提案された法案や企業合併がもたらす影響について特別な洞察力を持っているかもしれない。しかし、その人がそうした出来事から直接恩恵を被る立場にあるならば、論評の中でそのことについて言及すべきである。サービスや製品に感心したウェブロガーがその企業の株を所有している場合、自身のウェブページでサービスの宣伝を行う度にそのことについて言及すべきである。レビュー用にCDをもらう程度のことであっても、ウェブロガーはその事実について言及すべきなのだ。そうすれば読者は、そのウェブロガーの好意的なレビューがその人の嗜好によるものか、それともただでCDをもらい続けたいという願望によるものか判断できる。

利害が衝突する可能性についてまず言及し、その後で自分の意見を述べること。そうすれば読者は、あなたの論評を評価するのに必要なすべての情報を得ることができる。

6. 疑わしく偏向のある情報源には注意する

真面目な記事をかなり偏向があったり疑わしかったりする情報源から取り上げる場合、ウェブロガーにはその記事を見つけたサイトの素性について明確に言及する責任がある。

情報を漁っていると、ウェブロガーはかなり偏向が入った組織や見たところ狂信的に見える個人によって運営されているサイトで、興味深くよく書けた記事を見つけることが時折ある。妊娠初期の流産がもたらす医学的影響を扱った記事を、中絶反対を主張するサイトから取り上げたか、中絶賛成側から取り上げたか、さもなくばあらゆる種類の医学的介在に強く反対する立場のサイトから取り上げたのか、読者は知る必要がある。イスラエルとパレスチナの衝突についての緻密な要約であれば、それがPLOのメンバーによって書かれたにせよ、シオニストによって書かれたにせよ読む価値があるかもしれない――だが、読者にはその情報源について警告を受ける権利があるのだ。

情報を漁る達人であれば、これらの情報源の素性を見極めるだけの知識と熱意があると考えるのが妥当である。しかし、すべての読者にその知識を求めるのは妥当ではない。読者はウェブをナビゲートする案内役として、ウェブログにある程度頼っている。記事が少しいかれている情報源から出たものか、さもなくば強力なポリシーを持つ情報源から出たものか明らかにするのは良いことである。読者はその記事の良いところを十分に評価するのに必要な情報を持たないのだから、その情報源の素性を知らせないのは道義に反することである。

読者がそうしたコンテキストだけで記事内容を割り引いて考えることを心配するなら、あなたが仮にもその記事をリンクしている理由を考えること。その記事の長所を強く認めるのなら、その根拠を述べて自分の意見を主張しなくてはならないが、それには情報源について明らかにしなくてはならない。例え一度でもあなたが、すべての事実が読者に与えられていたら評価が違っていた可能性のある記事の情報源を隠蔽した――そうでなくても明らかにしなかった――と分かれば、読者はあなたを信頼しなくなるかもしれない。


1 1と5は、Scripting News における Dave Winer によるウェブロギングに関する健全性についての論考から導き出されたものである。我々の考えは大きく異なるが、彼の意見はこの問題について自分で考える際に一つの叩き台になった。


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