講談社文芸文庫編「戦後短篇小説再発見〈10〉表現の冒険」(講談社文芸文庫)


表紙

 既にこのシリーズが20冊近く出ているのは知らなかった。その中で本書を購入したのは、ちょっと変わったものを読んでみたかったというのがある。

 収録されているのは、書名にある通り戦後、即ち昭和20年以降に発表された短編小説である。今読んで純粋に「表現の冒険」を感じるとなると笙野頼子の「虚空人魚」だと思うのだが、個人的な評価が特に高いものを挙げるなら、小島信夫「馬」、藤枝静男「一家団欒」、澁澤龍彦「ダイダロス」、そして吉田知子「お供え」あたりになる。

 「表現の冒険」とあるから、作品の舞台設定も奇抜なものが多いかと思いきや、《家》を中心とするものが多い。それについては清水良典による解説でも触れられており、それは「戦後短篇小説再発見」という枠におけるものとして的確なものだと思うが、もっと単純に日本文学における短編小説の準拠枠としての最小にして普遍的な単位としての《家》というのがあるのだと思う。それが好ましいこととはあまり思わないが、それを咎める理屈が当方にあるというのでもない。

 そうした意味で少し気になるのだが、清水良典による解説でも書かれているが、笙野頼子の「二百回忌」を藤枝静男「一家団欒」の後継として挙げるのはよく分かるし(三島賞の選評でも筒井康隆が引き合いに出していたっけ)、「一家団欒」が優れた短編小説なのは間違いないが、「二百回忌」は前述の《家》を小説の準拠枠の単位として考えた場合、そこを逸脱し、越えているということは書いておきたい。


 話を本書に戻すと、本書において白眉なのは小島信夫の「馬」だろう。この作品も《家》を単位としているのだが、「群像」の遠藤周作追悼号における対談だったと思うが、安岡章太郎が面白い話をしていたのを思い出した。

 小島信夫が「アメリカン・スクール」で芥川賞を取ったとき、吉行淳之介がお祝いの品を持って小島の家に出向いたらしい(吉行はそういう意味で気が利く人だった、と安岡)。住所は大体聞いていて、その近くまで来たのだが、なかなか見つからない。実は目印にしていた、城のようにそそり立つ家がそれだったのである。こんな立派な家に住んでいるわけはないとはじめに外していたわけである。ただ高いところにあるから立派に見えるだけだと小島は言っていたが、「馬」における主人公の家の描写を読んでなるほどと思った次第である。

 もちろん以上の話は余談であり、「馬」を読むのに必要ない知識なのだが、《家》という単位に振り回される夫というテーマは、鈍器で打たれたような読後感を残す後の傑作「抱擁家族」でも繰り返されるものである。「抱擁家族」を先に読んでいると、「馬」は純然たるホラーに読めます(笑)。もっとも「馬」は「抱擁家族」より約十年前に書かれているのだが、小島信夫の短編に見られる、ぽんぽんと調子が良いようで同時に技巧的であり、またどこか恐ろしくもあるユーモアがよく出ている。


 他にもいろいろ面白い短編があり、楽しく読めた。内田百關謳カの「ゆうべの雲」とか、半村良の「箪笥」とか、高橋源一郎の「連続テレビ小説ドラえもん」とか。


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初出公開: 2004年01月26日、 最終更新日: 2004年01月26日
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