沢木耕太郎「壇」(新潮文庫)


表紙

 ルー・リードの大阪ライブの翌日女友達と会った際、新大阪駅の中にある本屋で帰りの新幹線で読む本として「壇」と後一冊を購入した。その本屋の名前が「dan」であるのは偶然だが、今書いていて笑ってしまった。

 壇一雄の「火宅の人」は、僕はこれまで読んだ小説の中で最も面白かった小説で、何と見事な解放、逸脱だろうとひたすら愉快に読んだものである。私小説に分類されるもので、はじめて楽しんで読めた小説でもある。

 沢木耕太郎による本書については、以前くだらな日記で下条さんが、「なんで書いたのかよくわからない本」と一文で切り捨てておられた。この世にある小説の類はすべてそんなもんさと言ってしまうことも可能なのだが、下条さんがそう書いたのも何となく分かる気はする。

 よくできた本ではある。しかし、一体何が目的であるのかね、何の益があるのかね、という。


 僕は「火宅の人」をひどく楽しんだが、それを壇一雄の実生活の方向から分析した本はほとんど読んでない。これは彼に限らず太宰や安吾についても同様である。経済的な理由もあるが、そうした作家の実生活は、彼らの輝くべき作品世界に比べれば往々にして馬鹿馬鹿しいぐらい愚劣なことも大きい。またそれは当然のことで、実生活以上のものを創り出せない人間などに僕は小説家として信用しない。

 ただ本書の評判は聞いていたし、沢木がどういう方向からノンフィクションに仕立て上げたのか知りたくて読んでみた。

 本書は、通常のノンフィクションとは異なる。作者自身は、最初と最後にそれらしい人物として触れられるだけで、飽くまで壇一雄の妻だった壇ヨソ子による一人称の語りとして構成されている。

 これはこれでかなりの技量を必要とすることだろう。また壇一雄の友人には書けない卓見も含まれている。壇が晩年「火宅の人」を書きあぐねたのは、一般に言われたモデル問題よりも、単に壇がそれに飽きてしまい、逃避したかったのではないかという見方などその一つである。


 本書において、「火宅の人」が「書く人の御都合主義」という表現で説明されるが、このキーワードは本書自体にも言えることだろう。そして本書にも書かれるように、誰もこの「書く人の御都合主義」から逃れることはできない。

 本書の評価もそこらへんにかかっているのではないか。本書のスタイルに長部日出雄が解説に書くように、「「四人称」ともいうべき、きわめて独特の視点をもつ」「新鮮な伝記文学の秀作」と推すか、そうでなくそこに沢木の「書く人の御都合主義」を巧妙に誤魔化そうとする狡猾さを読み取るかは読み手次第である。また、別に壇ヨソ子の名誉回復のためでもない本書自体に何の意義があるのか、と切り捨てることも可能だろう。

 僕自身は長部日出雄ほど評価はしないが、読者として一種のカタルシスは感じることができたのは間違いない。これは僕の邪推であるが、沢木は単に自らの資質・過去の仕事と整合性の取れる「小説」を書きたかっただけで、素材はどうでもよかったのではないか、と思ったりもする(素材への愛情が足らないと怒っているのではない)。


 さて、はじめの方で、作家の実生活の方向から作品を分析したものは読まないと書いたが、テレビは本よりもハードルが低いこともあってかついつい見たりしてしまう。「知ってるつもり」という番組があって、これはカレン・カーペンターやジャニス・ジョプリンの生涯すらお涙頂戴ものの悲劇のヒロイン仕立てにしてしまう、なかなか強力俗悪な番組なのだが、それですら(僕が知るだけで)谷崎潤一郎と壇一雄の生涯は、そうした感動のストーリーに押し込めることはできなかった。理由は単純で、彼らが作家としての自由を優先し、人間としての身勝手さを貫いたからだ。筒井康隆も以前に書いていたが、「小説家というのは本当に悪い人間がやっていた」ものなのだ。

 一方、壇一雄についてはもう一つ忘れられないテレビ番組があって、NHKスペシャルで「火宅の人」の成立過程をたどったものだ。これ自体、僕が「火宅の人」を読むずっと以前に放映されたものである(だからよく覚えていたものだと思う)。その中で、彼が「火宅の人」の最終章を息も絶え絶えになりながら口述する音声を僕は忘れないだろう。放埓に放埓を重ねた挙句、パリの熱狂と寂寞への逃避を夢想した著者は、確かに小説家として自由を貫徹させたことは間違いない。


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初出公開: 2000年12月25日、 最終更新日: 2000年12月25日
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