ろくでなし達の死 --淀川長治、バロウズ、祖母--


 知友の死が続き、筒井康隆が「みんな死んでいくんだなあ」と色川武大にぼやいたことがあった。すると色川武大は急に厳しい表情になり「いま真っ最中です」と答えたそうだ。それから数年後、色川武大も心臓破裂で死に、筒井康隆は追悼文を書くことになる。

 そう、みんな死んでいくのだ。誰もが自身の死まで、他人の死を見続けなくてはならない。


 今録画しておいた「日曜洋画劇場」の淀川長治追悼特集を観ながら書いている。米寿を越えての死なのだから、大往生といえるだろうし、彼自身悔いのない人生だったろう。

 僕が物心ついたときから彼は老人であった。不思議なものでそういう人の場合、外見的に老いていく過程を見るのとは違い、逆にその人の老いの終着としての死がかえって想像し難いものだ。男性の有名人では淀川長治がその典型であったし、女性のそれは、僕にとっては菅井きんである。そして、僕の祖母も同種の存在であった。


 筆者は非常に性格が陰険なので、淀川さんが語る「嫌いな人には会ったことがない」という言葉や、彼が発するヒューマニズム的に空気にはじめは白々しさを覚えたものだ。

 しかし、彼は置き屋の息子として生まれ、マザコンで、反動で父親を憎みぬき淀川の血を絶やすことを誓い、生涯妻を持たず母親以外の女性を愛さず、男色家を貫き通した、という彼の生い立ちを知り、僕は初めて彼が語る人間愛の底に流れる奇形性と深い悲しみが流れていることを知って驚いた。

 「ボク来週死ぬんだからね」が口癖で、謝礼は必ず前金で受け取りピン札を数え、額によっては非常に態度が悪くなることもありうるという話、そして彼が晩年全日空ホテルを住居にしていたという事実から鑑みても、彼は一般良識から隔絶した存在と言ってしまっても構わないだろう。

 「映画における花」というテーマで語ってくださいと頼まれ憤激し、「アンタ何て下らないことを喋らせるの! 「映画におけるウンコ」なら幾らでも喋れるのに。そういえば「トレインスポッティング」にもウンコが出てたでしょ」と怒鳴ったという話を読んだり、数年前のキネマ旬報で年間ベスト洋画に「ケロッグ博士」という変態映画を一位に推していた事実を知ると、「太陽がいっぱい」に男色を読み解いた有名な話と併せ、僕なんかとても適わないなと思う、人間としての変態性においてすら。見事なまでのろくでなしぶりである。


 断っておきたいのだが、僕は淀川さんの生涯を愚弄したいのではない。彼の人生は映画のために費やされた人生なのだ。それ以外のことは本来どうでもいいことで、それなら映画評論家としての彼についても触れておかなくてはならない。筆者にしても他の多くの人と同様「日曜洋画劇場」の解説が彼の評論を知る主な場であったが、何しろあの番組は放映する映画に対する見識が非常に低く(恐らくは予算の問題だろう)、淀川さんが気の毒に思えるときも多かった。それでもその映画の良いところを発見しようとする平易な語り口は感動的ですらあった。

 彼の映画評論家としての骨頂はやはりテレビ以外の場での評論である。筆者が最初の半時間で眠ってしまったフェリーニの「8/」のような難解とされる映画を、通俗にも高踏にも属せず読み解いて見せる手腕は素晴らしかった。易しいものを易しく、難しいものを難しく語るのは誰でもできる。易しいものを難しく語るのは馬鹿である。彼のように難しい(とされる)映画を易しく語ることができる彼は間違いなく一線級の映画評論家であった。

 そして彼の偉大さは、生涯批評家として現役であり続けたことに止めを刺す。彼の映画評論は Web 上でも見れるのだが、そのリストを見て驚嘆するのは晩年に至ってからもとんでもない数の、しかもそれが特定の趣味に偏ることなく芸術映画からロック映画からホラー、SF、娯楽大作まで網羅されていることで、一部印象批評以前の感想文もあるが、殆どの映画に対して「外した」評論を残してないのはやはりすごいことだ。


 しかし、僕が淀川さんの死に際し想うのは、彼の映画評論家としての偉大さでは、実はない。彼の最晩年の映像を見て連想するのは、筆者の祖母のことで、人間歳を取ると顔が段々同じような変化を遂げるのか、淀川さんの顔が筆者には祖母に重なって見える。そして、もう一人、唐突に思えるかもしれないが、米国の二十世紀文学を語る上で欠かせない作家、ウィリアム・バロウズの顔にもその印象が重なる。

 二十世紀を代表する作家とバロウズを持ち上げたが、彼は「文豪」などという言葉で表現できるような古典的作家ではない。成金の息子として生まれ、いい年して親の脛を齧るうちに同性愛と麻薬にのめり込み、ラリってウィリアム・テルごっこをやって妻を銃殺してしまい、麻薬友達のケルアックやギンズバーグが有名になるに従いビート世代の一員として評価され、代表作の「裸のランチ」は検閲裁判で一躍有名になり・・・と書いているうちに馬鹿馬鹿しくなるほど表面的なキャリアを持つ作家なのである。


 その不死身のジャンキーと呼ばれ、80年代以降はオーバーグラウンドでも名声を得た彼も97年往生を遂げたが、このときも淀川さんの時と同様、心の準備はできているのにどこか信じられないという不思議な感覚に捕らわれた。バロウズが最後に書いた「夢の書」には技法、スタイルのみを追求した作家と思えないような、それこそ夢を見た後のようなぼんやりとした後悔の念が綴られている。その後悔の対象は、同性愛の性癖を知られてからどうも疎遠になってしまった父親、兄に世話を押し付け死に目にも会えなかった母親、自分が愛情を注がなかったせいで死に追いやってしまった息子、そして彼が晩年愛した猫などの動物達である(しかし、彼は最後まで妻の死を「悪霊の仕業」と決め付け逃げ続けた)。

 バロウズの邦訳を数多く手がけた山形浩生も「これがある意味バロウズの限界だった」と書くように、最高にクールなじじいではあったが、最期までスタイリッシュなろくでなしを貫けなかったろくでなしの人生の末路だと言えるだろう。


 そして筆者の祖母もろくでなしだった。しかし、その彼女が筆者の家族の中で最も信心深く、足が不自由になるまで教会への礼拝を欠かさなかった敬虔さを持っていたのは愉快である。彼女は最後まで金銭に執着し、他人(特に嫁)に猜疑心を抱き続けた。果たして祖母は教会で何を祈っていたのだろう。死の床についてさえ看護する家族にねぎらいの言葉をかけず、自分の意に沿わない看護婦に暴力をふるった彼女の人生は幸福だったのだろうか。幸福だったに違いない、と思う。全く皮肉抜きで。

 僕は祖母の付き添いをして長生きする秘訣を学んだ気がした。その秘訣とは、自分の生命が危なくなったら、自分のことだけ考えることだ。何だそんなこと、と思われそうだが、医者であれ家族であれ他人を均一化し、自分のためのみに行動するのは、なかなか困難なことで、エゴイストを自認する筆者にしても外聞や虚栄心やらが邪魔をして、とてもやりおおせないだろう。


 彼女は筆者が会社に入社した日に他界した。社会人としての月日と祖母の不在の月日が同じなのだ。テレビ画面の中の淀川さんを見つめているとどうしても祖母の顔が浮かんできて仕方が無い。スターリング・モリソン、遠藤周作、バロウズ、埴谷雄高、黒澤明、淀川長治・・・僕に影響を与えた表現者に限っても、これだけの人たちがこの数年鬼籍に入った。みんな死んでいくんだなあ。

 さて、三人の人間を「ろくでなし」と決め付け話を進めてきたが、言うまでもなくそういう筆者もろくでなしに違いない。恐らくはろくな死に方をしないだろう。しかし、それでも僕は僕なりの生を歩み、死を迎えたい。淀川さんのような堂々と何かに人生を捧げることなどできない。バロウズのようにかっこいい老人にもなれない。祖母のように長生きできるかも怪しいところだ。

 そうした意味で、祖母が死んではじめて僕は彼女の不在を寂しく思っているのかもしれない。祖母に幾らか愛おしさを感じているのかもしれない。「知恵とちんぽは要るとき使え」という芥川やゲーテにも劣らない現実的かつ含蓄のある警句を残した彼女と同じろくでなしとして・・・


[後記]:
 冒頭の会話は、筒井康隆の「笑犬樓よりの眺望」(新潮文庫)に出てくる。淀川長治のエピソードについては、rockin' on 誌に掲載された小田島久恵の文章から引用した。

 全体的に性急な決め付けに頼った文章であるが、アントン・コービンの写真展でバロウズの写真を観たときの驚愕があって、淀川さんの最後の放送を観ながら三人を結び付けた文章を書こう、と思ったのだ。

 98年末に書かれた文章だけど、それ以後も自分に影響を与えた人達がどんどん死んでいる。


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初出公開: 1998年11月、 最終更新日: 1999年12月25日
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