突然であるが、僕は酒が好きだ。そして、実際よく飲む。だが、さして強いわけではなく、二日酔いで苦しむことも時々ある。
飲酒が常習になったのは、かの関西・淡路大震災後で、しばらくは不安の余り、安焼酎をオレンジジュースで割って飲み続けた。僕は大阪での震度5の揺れ(公式発表の震度4は誤り)を体験して、以来本気で地震が恐くなったが、神戸の震度7に比べたらお遊びのようなもので、そのとき神戸の人々が受け、今なお痕跡を残す恐怖を想像するだに恐ろしい。ただ、当時酒が手放せなかったのは、僕自身が別のところで問題を抱えていたせいもある。それについてはここでは触れない。
基本的に、僕は一人で飲むのが好きだ。大勢で飲むのもいいが、時折寂寥感に襲われ、死にたくなるときもあるので要注意だ。また、気の合った男の友人とサシで飲むのは楽しいが、女性とサシで飲むのには注意がいる。女性より酒の方に意識が行くのは困り者だし、いずれにしろ、女性を酔わせるのは楽しいが、それに酒の力を借りるとあとでしっぺ返しをくう場合もある。
どうも話が横線に逸れたようであるが、結局のところ、僕は、現在にいたるまで酒を日常的に飲んできたことになる。社会人になったあたりから飲む頻度が上がったように思う。これには色々理由があるだろうが、経済的に自立したのが最も大きいようだ。飲む量であるが、一時間でスコッチのボトル一本は楽勝、というのは嘘で、平日はビールを缶で350〜850ml程度飲むくらいである。休肝日は、殆どない。そして、週に一度程、ワインをボトル一本一晩で一人空けることもある。ワインといっても、コンビニにで買えるような安物の白ワインなのだけど。
結論としては、量的に見れば、僕はアルコールの摂取過多ぎみなようである。
当然であるが、アルコールは有害なドラッグである。酒は百薬の長などというが、大体、「とてもええこころもち」になる量の三倍服用すれば致死量に達する液体を新しく開発しても、薬としてはおろか嗜好品としても厚生省は販売を認可するわけがない。それが酒なのだ。また、前述の格言を言う人は、「少量のアルコールは身体にいい」とものたまうが、これは広く行き渡った妄言の類で、どれだけ少量でも、総体としてみれば、酒は常に身体に有害なのだ。もっとも、自分が酒を飲むことを正当化しようとする人間に限って、少量のアルコールで満足しないのだが。
それでは、僕の場合どうなのだろうか。僕は、自分が酒を飲むことに関しては、決着がついているつもりである。つまり、有害であることを認識してもなお、飲酒を止めない自分を否定しない、ということである。
僕が酒を飲むのは、当然それによる効用を求めるからであり、その効用自体他の人と何ら変わることはない。大学時代は、専ら酒の催眠作用を当てにしていたようだ。現在でも眠りが浅いのが悩みの種であるが、当時は軽度の不眠症だった。そして今、僕は酒に何を求めているか。簡単に言うと、逃避作用だろう。一時でも、自分のことを忘れないとやってられないのだ。
夜一人になったときに襲ってくる、過去自分が犯した罪の記憶、羞恥、自責、自卑の念に、他の人はどう対処しているのだろう。
現実逃避と笑わば笑え。僕は、自分と向かい合うのが耐えられない。自分と向かい合う、自分の内面を見つめる、これらのことを本気でやろうとすると、大抵の場合頭がおかしくなる。それならやらなければいいじゃないか、と片づけられる人間は幸せだ。無知が罪だが不幸でないのと似ている。
詭弁のようだが、僕は自分という存在を、正面から引き受けた生き方をしたいから、逃避が必要なのだ。酒でも煙草でも、それが生きていくのに必要だと感じるのなら、その益も害も、その周辺の軋轢も皆受け入れればいいではないか。一個の実存などちっぽけな器に過ぎない。その中で自分が求める自由を求め、勝ち取ることも、生きる上での重要な表現に違いない。人間の内面など空っぽの闇だ。生きるということは、飽くまで外界との関係性を築くということで、その在り方こそが、その人の人生表現なのだ。そして、その表現こそがその人間の全てであって、内面の苦悩だの葛藤などは、外界との繋がりの中で、行動(表現)されなければ何の意味も重みもありはしない。
必要なら毒だろうが自分の世界に取り入れればいい。止めるべきだ、と判断したら止めればいい。それは飽くまで当人の自己表現法の問題であって、他人がとやかく口を出すべきでないし、どうして強制など出来るのか(病気としての中毒の場合は例外であるが)。他者への思いやり? 欺瞞はよしたほうがいい。自分の価値観に合わない他者が気にくわないだけじゃないか。どうしても我慢がならないなら、自分と他者の価値観、審美眼、倫理を戦わせればよいではないか。結局のところ、人生の根本は闘争なのだから。
フランスを代表するソングライター、プロデューサー、歌手、俳優、映像作家だったセルジュ・ゲンズブールは、自分の不摂生を「私流のゆるやかな自殺法」と呼んで悦に入っていたという。実際、彼は自然死と公式発表された死に方をした。本来繊細で、女性的ですらある彼が、希代の女たらしを日常で演じるために、大量の酒が必要だったことは想像に難くない。そして、そのために彼の寿命を縮めてしまったのも明らかだろう。しかし、それなら彼が生来の性情に沿って生き、不摂生をしなければどうなったか・・・そうした仮定には何の意味もないのは言うまでもない。
人間は死ぬために生きているのか。それは何ともいえない。しかし、ある生き方をするために、その人の生のある部分を殺さねばならないこと、これには同情など必要ではない。ごく普遍的なことである。
だが、僕は純粋に酒が好きなので、どこまでこの前提が通用するか分からない。本当の意味の自堕落にひきずりこんでしまうこともあるだろう。僕は無駄に酒のために生を費やしてはいないだろうか・・・それは日単位で考えることだが、それでまた自分が不甲斐なくなり飲まずにはいられなくなるときもあったりして・・・これこそ、最大の問題かもしれない。
[後記]:
現在では流石に毎日は飲みません。寿命を縮めることより太ることが恐いんです。既に十分すぎるほど太ってしまいましたし。