金曜の昼下がり、Yahoo! ニュースを何となしに見ていたら、イギリス総選挙における労働党の三期連続の勝利を伝えるトピックページに、Wikipedia のトニー・ブレアのページへのリンクがあるのが目に付いた。
いつ頃だったかは覚えていないが、Yahoo! ニュースのトピックページに Wikipedia やはてなダイアリーキーワードへのリンクがあるのをはじめて見たときは大層驚いたものである。個人的にはよほど内容の出来の良いものでない限り、はてなキーワードにリンクするのは疑問を感じるのだが、それは単にはてなキーワードが元々正確性や厳密性を目指したものでないというだけで、その意義を否定するものではない。
一方で、それなりに知っているように思う人物についても、Wikipedia のページを見ると発見することがあり、実際トニー・ブレアがザ・ダークネスのファンであるのは知らなかった。
少し興が乗ってイギリスの首相一覧ページを基点にしばらく各国の有名政治家のページを飛び回ったのだが、ミハイル・ゴルバチョフのページに「ドイツのヴィム・ヴェンダース監督の映画『ベルリン 天使の詩』に本人役で出演した」という初歩的な間違いを見つけ、唸ってしまった。ゴルバチョフが本人役で出演したのは、その続編である『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース』である(注記:今週末当方が修正を行ったので、上記の誤った記述は現在はありません。履歴を確認ください)。
当方でも一瞥して分かる程度の間違いを目の当たりして、Wikipedia の信頼性についても少し考えてしまった。思えば今年のはじめには、野尻ボードへの狩野宏樹氏の「スイングバイの正しい説明を求む」の投稿にはじまる問題提議があった。詳しい話は狩野さんのブログを参照いただきたいが、そこに書かれる「Wikipedia に執筆してほしい人は Wikipedia の必要性を感じないというジレンマ」は、今なお有効で、かつ重いものがある。ただ基本的には利用者としては、「ネット全体から正しい知識を探す能力が低く、Wikipedia の記述を鵜呑みにしてしまうような人こそが、Wikipedia の類に頼りがちであるという第二のジレンマ」に陥ることも戒めながら、間違いを見つけたらできる範囲で適宜内容を正していくという地道なやり方しかないのだろう。もっともそのボトムアップの方法論にも、専門家軽視に陥る罠が指摘されているが、件の問題の発端となったスイングバイのページが、現在では分かりやすく解説する GIF アニメを含む充実した内容になっているのを見ると、必要以上に悲観的になることはないように思える。
再び Wikipedia のイギリスの首相一覧ページに戻ってイギリスの歴代首相の名前を見ていくが、やはりワタシのような世界史について初歩的な知識しか持たない人間にとって、最も偉大なイギリス首相といえば、ウィンストン・チャーチルになる。以前書いた All That Style という文章でも引用したタキ・テオドラコプロスの「スタイルとはなにか?」(『ハイ・ライフ』収録)には以下のくだりがある。
スタイルとは見せかけの反対である。強い信念のことである。ひっきりなしに葉巻を喫い、痛飲を重ね、意地の悪いことで有名だったウィンストン・チャーチルは、本来的には、下品な男だった。にもかかわらず、その実行力と強い信念が彼を確固としたスタイルの持主にしていた。
チャーチルの評価についてはいろいろあるし、Wikipedia のページにも、最後に首相を務めた二期目について「国際問題に悩まされ、大英帝国の衰退を告げる下り坂の時代に終始した」とある。
ワタシのような21世紀に生きる日本人がチャーチルに親しむのは、タキの言葉を借りるならその強い信念と意地の悪さの両方を感じさせる政治家としての発言の数々と彼が残した(とされる)ジョークを通してである。
実際、彼の業績には執筆活動も含まれる。彼がノーベル文学賞を受賞しているのはそれでも驚きであるが。
Wikipedia のノーベル文学賞ページで歴代の受賞者の一覧が見れるが、受賞者のページまで作られている率が半分にも満たず、最初意外に思った。がしかし、よく見てみると結構知らない人が多いんだよね。知らない作家については書けないわけである。
お前を基準にするなと言われそうだが、少なくとも既にページが作られている作家についてはワタシも知った名前ばかりである。
ただノーベル文学賞というのは、必ずしもその作家の知名度で選ばれるものでなく、それは必ずしも悪いことではない。例えば、エリアス・カネッティ、彼は小説は一つしか書いていない流浪のユダヤ人作家で、受賞時も知名度は低かった。読書家をもって任じる安部公房も、ノーベル文学賞受賞後に彼のことを知って全集を読み、「ノーベル文学賞委員会というのもけっこう見識があるなと感心した」ことを告白している。もっともその見識は安部公房に対しては正しく向けられなかったようで彼の愛読者として残念でならないのだが、それはさておき、安部公房は「地球儀に住むガルシア・マルケス」(『死に急ぐ鯨たち』収録)に面白い話を書いている。
偶然にも荻原延寿君がオクスフォード大に行っていたころ、これも金がなかったから学校が終わると安いパブに行って、ビール飲んでパンでも食べていた。いつも隣り合わせに爺さんが一人居た。自分も黄色いアジア人で、孤独で金もない。すぐその爺さんと友達になった。ずいぶん頭のいい乞食だと思って、試しにちょっと難しいことを言うと、向こうはそれ以上のことを知っている。名前を聞いたら、エリアス・カネッティ。さすがイギリスともなると立派な乞食がいるものだと名前は憶えていた。(中略)というできすぎた話があるくらい、孤独に耐え抜いて来た作家です。
改めて一覧リストを見ると、知名度云々を抜きしても、前述のチャーチル以外にも結構意外な人がもらっている。個人的にはその受賞を一番疑問に思うのは大江健三郎なのだが、これは少し意味合いが違う。
今では『マイ・フェア・レディ』の原作者で知られるバーナード・ショーがとっているのは思ってもなかったし(まあ、彼も残した「皮肉な警世家」としてのジョークが有名というのではチャーチルと似ている)、バートランド・ラッセルに至っては、「私は頭のもっともよく働くときに数学をやり、少し悪くなった時に哲学をやり、もっと悪くなって、哲学ができなくなったので、歴史と社会問題に手を出した」という有名な言葉があるが、どこにも文学が出てこないじゃないか(もっとも哲学をやっていたときに、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインに対して「論理学なんて糞くらえだ!」と叫んだこともあるそうだが)。
しかし、それなりに知っているつもりの作家にしても、Wikipedia のページを読むのは楽しい。元々自分がこうした情報の集積ページを辿るのが好きなのだろう。
例えば、アンドレ・ジッドのところで、『一粒の麦もし死なずば』のページができているのに驚くと同時に、この言葉を懐かしく思い出した。ページにある通り、これはヨハネによる福音書の第12章24節におけるイエスの言葉であるが、ジッドに限らずいろんな小説などで引用されてきた。最も有名なのはフョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だろう。
イエスの言葉は文語調のものが引用されることが多いが、ワタシは新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』(上、中、下)における原卓也による口語調の訳が一番なじみがあるし、好きである。
よくよくあなた方に言っておく。一粒の麦が落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
また上にも書いた新たな発見もあった。ウィリアム・ゴールディングから『蝿の王』のページで、「ベルゼブブ」のページを知ったことである。
ワタシがこの「ベルゼブブ」という言葉を知ったのは、今から十年以上前のロバート・フリップのインタビューで、彼はキング・クリムゾンの本質を表す言葉として、この「ベルゼブブ」を使っていたときである。1990年以来のフリップ真理教信者であるところのワタシは、早速英和辞典でこの言葉(Beelzebub)を調べたが大した情報が得られず(フリップはそのインタビューで「悪魔界の王子」と表現していたように思うが記憶違いかもしれない)、この言葉の意味するところは分からずじまいだった。こうして言葉と再会するとともに、一通りの情報が得られた。
Wikipedia 日本語版がまだまだ質・量ともにむらがあり、英語版より見劣りするのは、この項目で比較してみても明らかだが、それだけで Wikipedia 日本語版の現状を批判するのは早急過ぎるだろう。むらに気付いた人が、できる範囲でそれを正せる。それが Wiki である。Wikipedia も、さらにいえばインターネットも、まだまだこれからなのである。しかし、自分はいつまでそれに能動的に関わっていられるのだろう。
……上の記述は、知ったような顔をしてワタシがゴールディングの『蝿の王』、並びに聖書をロクに読んでいないことを間接的にバラしてしまっているな――苦笑いしたところでふと我に返った。結構な時間を Wikipedia 漂流に費やしてしまった。いくら休みの間に生活リズムが崩れて昼下がりに眠気を感じ、仕事から逃避してしまいたくなるとはいえ、容認される逸脱の範囲を超えているではないか。
もっともそれを言うなら、仕事場でこの文章を最後まで読んでしまった人にもそれはあてはまるかもしれない。
ゴールデンウィークは終わったのである。