The Beaten Generation


When you cast your eyes upon the skylines of this ...
Once proud nation
Can you sense the fear and the hatred
Growing in the hearts of its population?

And our youth, oh youth, are being seduced
By the greedy hands of politics and half truths

The The, "THE BEAT(en) GENERATION"

 普段、世代論の類から距離を置くようにしている。そういうのは建設的ではないし、と言葉を濁すことが多い。結局のところ世代論に恣意的な自己正当化のための言説が多いというのがあるし、またそういうのに同調して連帯できたような気になるのも寒々しい。

 しかし実は世代論はそんなに嫌いではなく、特に切り口が鮮やかなものを読んで感心することも結構ある。また世代論には切り捨てる快感みたいなものがあり、その尻馬に乗って、例えば「団塊食い逃げ世代は全員氏ね」などと無責任に言い切るのは、建設的ではないと分かっていても気持ちが良いものだ。

 世代論そのものでなくても、それと同種の思いつきを並べ立てた文章はウェブでいくらでも読むことができる。最近では東浩紀によるライブドアとオウム真理教についての文章がそうだった。後だしジャンケンなのはともかくとして、オウムとライブドアじゃ市場経済に対するベクトルがまるっきり逆なのだからこじつけに思えるし、何でも「日本社会が構造的に生み出した」で済めば話は簡単だよと毒づきたくもなる。ただその続編における「堀江氏は時代の申し子だが、世代の代表ではない」というのはおそらくそうなのだろう

 そしてワタシもまた、なんだかんだと言いつつ頭のよくない世代論もどきを書こうとしている。


 以前とある宴席の二次会で、津田大介さんがしきりに、「73年生まれは一番人数が多いのに、活躍しているのはイチローだけじゃないか。76年生まればかりのさばらせていいのか」と嘆いていた。正確には「76年生まれ」には具体的な人名が入るのだが、ここでそれを特定する必要はないだろう。

 津田さんもワタシも1973年生まれである。世代的な分類でいけば71〜74年生まれは団塊ジュニアということになり、我々もそれに含まれることになる。もっともワタシの場合両親とも団塊世代よりも上の戦中派に属しており、何か食い逃げ連中に食わせてもらったような呼び名には不満があって(だからおよしなさいって)、ニセ団塊ジュニアという三浦展発案の呼称の方がむしろ近いようにも思うが、ややこしくなるので深くは突っ込まないでおく。

 昨年末、知ったかぶり週報で香山リカの『貧乏くじ世代』という本が紹介されているのを見て、津田さんの言葉を思い出した。

 香山リカは、単なる思いつきに精神分析用語をまぶして憂えてみせる、ワイドショーのコメンテータとして重宝されている(だけの)人だが、kajie さんによる紹介文を読む限り、この『貧乏くじ世代』というのはおそらくうまくヒットしたほうの思いつきなのだろう。しかし、この本を読み、内容が自分が期待した通りであったとしても、「そうだそうだ」と溜飲を下げて終わりになることが見えており、それはそれでイヤなので買うことはないけど。


 こうしてみるとなぜ自分が世代論を避けたがるのか分かる。この手の話になれば、いくらでも被害者意識を、疎外感を語ることができるからだ。そしてそんな泣き言をがなるのはみっともないと思う抑制心も働くからである。

 上の世代が浮かれたらしい「バブル」とやらの頃には中高生でまったく蚊帳の外で(ワタシの場合地方出身で、なおかつ当時大学生で遊び尽くし就職活動までぎりぎりセーフでその恩恵を享受した兄を見ているから尚更落差を感じるのかもしれない)、人数はこの年代で一番多いため受験は厳しく(ワタシの場合、第一志望の大学が見事不合格だったから尚更そう思うのだろう)、大学を出る頃には就職氷河期で、何とか就職しても「失われた十年」とやらで右肩下がりで、下が入ってこないからいつまで経っても下っ端扱いなのに(おまけには上にはバブル入社世代が詰まっている)、30を越えたら当然のようにリストラ対象の範疇に入れられてしまっている……もちろんそのすべてについて時代のせいだなんて情けないことは言わない。今様に言えば、大方「自己責任」の範囲の話である。

 しかしそれでもどうしても被害者意識的になってしまうし、「人数こそ多いけど、いつも我々は主役になれてない」という閉塞感は変わらない。


 さて、先週は見事なまでにライブドア株式会社への強制捜査、並びに堀江貴文前社長、現容疑者らライブドア幹部の逮捕の話題で埋め尽くされた。

 ワタシはこれまで、堀江貴文という人について書くことをこれまで(無意識的に)避けていた。好きか嫌いかで言えば、間違いなく嫌いである。好き嫌いに理屈はいらないと思うが、あえてこねるなら、当方はそもそも合法であれば何をやっても良いという考え方には与しないし、ライブドアという企業にも実がないように見えたのが気に入らなかった。

 だから当然当方はライブドアの株式を所有していないし、堀江貴文の著書を読んだこともない。ライブドアが Opera ブラウザに手を伸ばした時点で既に Firefox に移行していたはずだが、その報道を聞き、Opera に戻ることはないなと思ったことを覚えている。当方が仕事であの会社と接点を持ったのは、大分前に HotWired に原稿を書いたとき、ギャラがエッジから振り込まれたことが唯一である。当方は HotWired と当時のエッジが関係していることをまったく知らなかったのでびっくりしたものだが、今はライブドアから振り込まれるのかな?

 当方自身はつながりがなくても、自分の知った人でライブドアに勤務している人がおり、その人らが書く文章を読んでライブドアの内情もいくらか分かってきた。彼らが書くことがすべてなわけはないのは言うまでもないが、それでもライブドアという企業のあり方に対する疑問は大分解けた感じはする。

 一つ書くならば、先週さんざんニュースで映像が流され、勝谷誠彦はスーパーフリーに喩えたライブドアの忘年会にしても、その中にいてそれを冷静に見つめる目は確かに存在したということである。


 それにしてもこの二週間の報道はひどいものだった。推定無罪の原則なんてものがこの国にないことぐらい承知しているし、マスコミがホリエモンの凋落を期待し、その落差を最大化すべくホリエモンを持ち上げていたというのはその通りだろうが、検察情報か悪ノリなんてレベルを越えた悪意を垂れ流す貴様らに企業の品格だの正義だの法だの語る資格はないと(無駄とは分かっていても)言いたくなる。もともと見なくなっていたテレビからニュース番組も見なくなり、今やワタシの自室のテレビは、専ら『24』第3シーズン再生機と化している。

 上で当方が堀江貴文を嫌いな理由を挙げたが、突き詰めていえば「お金を右から左へ動かすとお金が生まれる」ということ自体に当方はなじめないのだ。別にこれは自分がお金に対して潔癖だと言いたいのではもちろんなく、どうしてもルール自体が気になって株や証券に手を出すのに躊躇してしまうのだ。これは間違いなく数多い当方の弱点の一つに違いない。そうした自分の弱さを棚上げした上に道徳者面して、ホリエモンの欲望の見せ方を糾弾するのは恥ずかしいと思う程度の慎みが当方にもある。

 上を読めば分かる通り、ワタシは株式や企業経営について乏しい知識しかない人間だから、これまでのライブドアの商法、並びに今回の嫌疑についてもほとんど語る言葉を持たない。だがそれでも、少なくとも強制捜査のはじめ頃にあがった嫌疑はどれもグレーゾーンに属するものに見え、そのブラックさを納得させてくれる人がいないのは気持ちが悪かった。

 どうしても今回の検察のやり方にはやりきれない気持ちになるし、劇場型逮捕という言葉すら浮かぶわけだが、一方で立花隆はライブドアの裏側に広がるブラック経済の闇とやらを語っていて、これも当方には判断できないが、野口英昭氏の死の真相もあわせ、ブラックならブラックで検察がその全容が明らかにするのを待つしかないだろう。


 かつて梅田望夫氏は、ベンチャーの創業に適した性格として、バブルだって合法なら悩まずゲームにのれることを挙げていた。その例としてマネックス証券社長である松本大の名前も引き合いに出されているが、なるほどマネックス・ショックを引き起こした後で、「ライブドアショックから学ぼう」などとぬけぬけと書く厚顔さは、まさに梅田望夫氏が書く資質そのものだろう。ワタシはそんな心性にはとてもついていけないが。

 そしてその資質を堀江貴文も持っていたのは彼の言動からして明らかだが、梅田望夫氏は「合法であれば」という条件を入れるのを忘れていない。つまりそうした意味でライブドア幹部陣の容疑がその通りであれば、彼らはゲームのルールを外れたことになるし、今後の捜査がどう転ぼうが、グレーが重なるとブラックとみなされ、検察につけこまれる(この表現自体偏っているが)隙を見せた時点で、ライブドアはゲームに負けたと言えるだろう。

 株式会社はてな社長である近藤淳也氏は、「一番の損失は、それに憧れていた若者の夢の力なんじゃないか」と書く。当方は氏の意見にはまったく同意できない。そのつもりはないと近藤さんは言うだろうが、夢だからといって、若者の夢だからといって、それだけで肯定されると思ったら大間違いだ。ライブドアの株式分割の手法を受けて株式市場が結果的に改善され、また虚業というイメージに対してその技術力についての検証がなされたように(ただワタシもその虚業のイメージを持っていたことは認めるが、その技術は収益を生み出していたのだろうか?)、現実により鍛えられていない夢などただの絵空事、妄想じゃないか。そんな努力もなしに尻すぼみになる程度の、強度のない夢が損失なわけがないだろう。そんなものいくら萎んだって何の違いがあるというのだ。


 堀江貴文は1972年生まれで、当方より一つ年長になる。世代論的な分類からしても同世代といって何ら差し支えない。しかし、マザーズ上場以降のベンチャー企業社長としての彼しか知らない当方からしてみれば、彼が自分と同世代と言われても正直ピンと来ないし、団塊ジュニアに属する人たちでも(今回の一件は別としても)彼を世代の代表ととらえる人は少なかったのではないか。

 当方に関していえば、彼の時代的役割はトリックスターであると思っていたというのがある。いくらスターでも、トリックスターが世代の代表にはならないだろう。

 プロ野球参入にしてもニッポン放送株買収にしても、既得権益者が自分たちだけ内輪でことを進めようとしているところに土足で乗り込み、その脇の甘さを突いて掻き回し、既得権益者、つまり年寄りたちを怒らせ、彼らをバカに見せるホリエモンのトリックスターぶりは見事だった。昭和一桁生まれのワタシの父親が、「アイツはけしからん」式の言説で彼をあからさまに嫌ってみせるのに対し、いやでもねとひとしきり彼の行動の正当性を説いた後に、どうしてワタシはホリエモンを嫌いなのに、奴を擁護してるんだ? と思ったことも何度かあった。

 現在彼にかけられている容疑の真偽は別としても、明らかにある段階から企業経営者としての堀江貴文よりも、露悪のために露悪を重ねるトリックスターとしてのホリエモンが先に来てしまったように見えるのは確かだ。

 そして彼はゲームに負けた。


 ワタシはホリエモンが若者に夢を与えたなどという意見には与しないが、こうやってゲームに負けてうちのめされた彼を見てはじめて、同世代としての悲哀を感じるのも確かである。

 そうした目で見ると、彼の発言にも違った意味が見えてくるように思う。例えば「女はお金についてくる」といった言葉にしても、その後に無分別に女を喰いまくったといった武勇伝が続くことはなく(多分)、彼に擬せられる光クラブの山崎晃嗣やオウム真理教の麻原彰晃について伝えられる過剰な性欲、異性への支配欲は感じられない。上の言葉はむしろ、(いろいろな意味で)面倒を省けるといった意味合いのほうが大きいのではないか。そうした「薄さ」に同世代性を感じるわけだが、もちろんこれは彼の実態を知らない者の邪推でしかない。

 閑話休題。

 黙っていれば無気力だ、覇気がない、ニートだ、少子化の原因だと蔑まれてうちのめされ、精一杯暴れてみせれば既得権益者の恨みを買いやはりうちのめされる。一番金を持っているのは団塊世代で、一番面白いことをやっているのは70年代後半生まれと言われ、どちらからも疎外される。いや、これが被害者意識なのは分かっている(堀江貴文に対して悲哀は感じるが、それを陰謀説などで合理化しようとは思わない。繰り返すが彼は道を踏み外し、そしてゲームに負けたのだ)。しかし、いつまでもうちのめされっぱなしでよいのかという気にもなるのも確かだ。これは世代間闘争で、我々に一番必要なのは復讐心ではないかとすら思う。

 企業としてのライブドアはもう厳しいかもしれないが、ホリエモンが死ぬわけではない。いずれ彼は帰ってくるだろう。形はどうであれ、また彼には暴れてほしいと思う。もちろんそうした彼のことを好きになるわけはなく、やはり嫌いなままかもしれないが、復讐を願う当方と彼が同世代なのに変わりはない。


[コラム Index] [TOPページ]


初出公開: 2006年01月30日、 最終更新日: 2006年01月30日
Copyright © 2006 yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)