『罪と罰』についてのメモ


 いま見沢知廉の「天皇ごっこ」(新潮文庫)を読んでいる。これの感想はいずれ読書記録に書くだろうが、会社帰りの電車の中でこれを読んでいて、おっと身を乗り出したところがある。

 殺人を犯し精神鑑定で措置入院となったパラノイアの患者が、精神科医にラスコーリニコフについて意見を求められ、答えるくだりだ。

「ドストエフスキーは否定してないでしょう。別にラスコーリニコフも反省したわけじゃないでしょう。多少つきあいがよくなったぐらいで。はっはは。(後略)」

 今こうして書き写してみると、僕の解釈とは隔たりがあるのだが、これを読んだときには、僕の中であの本を読んで以来わだかまっていたところを突かれたような気がしたのは確かである。


 僕にとってドストエフスキーというのは、未だに一番すごいと思う小説家である。一番好き、となると安吾だろうが。

 そのドストエフスキーにしても、近頃では読む人も少ないのだろうか。僕の場合は、大学時代に暗い精神状態の毎日をやり過ごすのに適した安価な娯楽というと本を読むぐらいしかなく、高校時代まったく本を読んでなかった報いで、遅れ馳せながら古典名作を辿るうちにドストエフスキーに行き当たり、惹かれていったわけだが、お世辞にも誇れたもんじゃない。自分の経験を踏まえて、お前らも読めなんて偉そうには言えません。

 それはともかく、『罪と罰』は彼の作品の中でも最も有名なものになるだろう。読んだことはなくと も、その筋ぐらいは基礎教養として知っている人が殆どだと思う。僕にしても読む以前から、「貧しい大学生ラスコーリニコフが、自らの理論に従い高利貸の老婆を殺害するも…」といったストーリーはいろんなところで読んでいた。

 が、その後実際に『罪と罰』(上)(下)を読んだ後、自分が想像していた内容とのギャップを感じたものだ。やはり、あらすじを書く人間にしても、読んでない人間がいたりするのだろうか。


 僕がギャップを感じたのは、まずラスコーリニコフの胸糞悪いくらいの倣岸さと辟易するほどの自意識の強さで、もう少し理想肌というか理知的な人間を想像していたのだが、これは僕が19世紀ロシア文学におけるロシア的気質をよく知らなかったせいもあるし、あの倣岸と自意識があってのラスコーリニコフであるわけだが。

 そして、最も意外さを感じたのは、彼が自首したのが彼の理論の否定でも改心でも何でもなかった点だ。僕が読んでいたあらすじは、ソーニャの存在などがずっと図式化して書かれていて(あらすじというのはそういうものだが)、彼が心を入れ替えて自首でもしたかのように書いていたものもあったのですな。

 言っておくが、彼はシベリア送りになった時点では悔恨も改心もしていない。手元にある工藤精一郎訳の新潮文庫版から引用してみる。

《どこが、どこがおれの思想は》と彼は考えた。《創世以来世の中にうようよとひしめき合っている無数の思想や理論よりも、愚劣だったのだ? ぜんぜん束縛されぬ、日常の影響から解放された広い目で、この事件を見さえすれば、もちろん、おれの思想は決してそれほど……おかしなものには見えない(後略)》

 また彼はこうも独白している。

悪事とはどういう意味だ? おれの良心は平静だ。もちろん、刑法上の犯罪が行われた。もちろん、法律の文字が破られ、血が流された。じゃ法律の文字の破損料としておれの首をとるがいい……それでいいじゃないか!


 どうよ、この性懲りのなさ。反省のなさ。これが上下巻合わせて千ページ近くの大著の最後の十ページあたりの記述なんですぜ。

 そしてその性懲りのなさがあるからこそ、最後の最後にラスコーリニコフがソーニャの膝にしがみつき抱きしめる場面、そしてそれに続いて語られる愛による復活が格別なものになるのだが、現代の読者はそれまでの九百数十ページをただの忍従ととるのかもしれないし、その時間感覚からこの大著を避けるのも無理からぬ話かなとも思う。

 でもこの文章を書くために、久方ぶりに枕元の本棚から文庫本を手にとって見たのだが、読んでみるとこれが面白くてたまらない。痴呆症の進行もあってか、読んでから十年も経ってないのに結構忘れていて、こんな憎たらしいことをこいつは言ってたのかと読みふけってしまう。犯罪者の心理を書く、といっても最近ではいくらでもあるのだろうが、ここまで正攻法で突き詰めたものはそうなく、やはりドストエフスキーはすごいと再確認させられた。

 そして前述のラストの感動は彼の作品中でも格別である。『白痴』の哀切、『悪霊』の不気味さなどある意味当然の帰結といえるものも好きなのだが、『罪と罰』は最後の契機が唐突であるだけ、その一気に上りつめるような興奮も特別である。『カラマーゾフの兄弟』における「カラマーゾフ万歳!」の唱和の高揚にも劣らないだろう。


 しかし、そうした小説としての面白さを一旦置くと、読者は大きな命題と向かい合うことになる。それは文字通り人間の「罪」と「罰」のことであるが、それはとてもじゃないが、簡単に書ききれることではない。しかし、犯罪者の魂の復活というのは、文字面の大袈裟さはともかく、我々と無縁なものではまったくない。

 最近になってようやく「犯罪被害者の人権」が叫ばれるようになり、未成年者の凶悪犯罪の増加(これは飽くまでメディア上で取り上げられる事件がそうだということで、実際にどうかというところは、黒木玄氏による「少年凶悪犯罪は深刻化したか?」あたりから辿って判断していただきたい)を背景にして少年法も改正された。

 少年犯罪に対する厳罰化が主眼と言いきってよいと思うが、僕は基本的に賛成である。しかし、厳罰化が犯罪抑止力を持つからと考えているわけでは全然ない。というか、それは全く別の問題だと思う。僕がそれに賛成するのは、単純に今の量刑が不公平だと考えるからで、ラスコーリニコフの言葉を借りれば、「法律の文字の破損料」に歪みがあったということだ。そして勿論のこと、歪みはこの分野だけではない。それを是正する発議だと判断すれば僕は賛成する。それだけのことだ。

 そうした意味で、厳罰化が犯罪抑止力を持たないというのを今回の改正反対の根拠に持ってきた朝日新聞あたりのメディアは、それを言いたてるだけ少年法に「期待」しているのが透けて見え、逆に卑しさを露呈しているように思う。


 改正に賛成した議員達の中にも、本気で今回の改正が犯罪抑止に寄与すると考えている者もいるだろうし、そうでなくても是正の先は何も見えてないのが殆どだろうが、それは僕にしても五十歩百歩だ。

 ただ、その次に犯罪者の「罪と罰」、そしてその更正について考えてはいる。犯罪者について考えるというのは、肩を持つことでも同情してあげることでもない。想像力を働かせることだ。その助けとして『罪と罰』は価値を失ってないだけでなく、いまだ読まれるべき書物だとは思う。

 さて、この小説において、改心しなかったラスコーリニコフは、最後の最後になってどういう地点に到達したのか。

弁証法の代りに生活が前面に出てきた。そして当然意識の中にはぜんぜん別な何ものかが形成されるはずであった。

 実に控え目である。神の啓示を受けたわけではない。人性が一気に転向したのでもない。当たり前だ。ドストエフスキーは、ラスコーリニコフの新生活に必要なものをしっかり書き加えるのを忘れていない。

彼は、新しい生活が無償で得られるものではなく、もっともっと高価なもので、それは今後の大きな献身的行為であがわれなければならぬことに、気がついていないほどだった……

 その献身の本質、そしてそれを知ることが犯罪の抑止につながることなのか、そしてそこに犯罪の加害者が救われる道があるとして、それは犯罪被害者の救いの道と交わるところはあるのか、といったことを考えてみることは、新しい文章のテーマになり得るのだろうが、――この文章はこれで終わった(とパクってみる)。


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初出公開: 2000年12月11日、 最終更新日: 2002年08月27日
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