松井力也「「英文法」を疑う」(講談社現代新書)


表紙

 「英文法を疑う」などというどこかで聞いたような名前の本をわざわざ購入したのは、著者が松井力也さんだったからである。高校教師になられたことは存じ上げていたが、氏の文章を再び読むことができて嬉しい限りだ。

 裏表紙にも書かれてある通り、松井さんはロック雑誌 rockin' on のかつての常連投稿者で、十年前僕が初めて購入した同誌に載っていた彼のトッド・ラングレンについての文章は感動的で、読んでいて不覚にも涙ぐんだことを覚えている。実はそのとき僕はトッド・ラングレンの音を聴いたことがなかった! それぐらい松井さんの文章はすごかった。

 基本的に rockin' on の投稿原稿というのは理屈が立っているものが多く(当時は特に)、当時高校生だった筆者には小難しさしか感じないものもあったが、松井さんの文章は平明・率直な文体を保ちながら、読み手の情感を深く揺さぶるものがあり、80年代後半から90年代前半に彼が書いたストーンズや RC サクセションについての文章は、今でも生々しく覚えている。


 始めに「どこかで聞いたような名前」と書いたが、勿論それは著者も承知しているだろう。それでもなお英文法を疑わざるを得なかったのだろう。ここでいう英文法というのは、日本において英語を学ぶために体系づけれた英文法のことである。

 そして著者の視線は、その歪んだ「日本教育における英文法」を通り越し、英語という言語のあり方そのものにも向けられている。松井さんは英語自体を日本人として疑っているのだ。

 そこから得られる結論は、実は本書の最初の章で述べられている。即ち、英語と日本語は相性が悪く、英語が苦手で当たり前、ということだ。


 本書で特に優れているのは第一、二章である。副題にもある「ゼロから考える単語のしくみ」というのはやはり名詞・代名詞に適用するのが最も納まりがよいようだ。

 全ての単語を「モノ」として扱う英語と「コト」としてとらえる日本語の相違、英語における一神教であるキリスト教という土壌の上で二者択一の絶対性を前提とする世界観と、関係性の距離を測ることを基本とした日本語における相対的な思考法の噛みの悪さ、と簡潔にまとめてしまうと、特にキリスト教を持ち出すところなど目新しいところはないが、松井さんは奇をてらうことなく正に単語レベルから主張を裏付けていく。

 第三章は動詞、第四章は前置詞・接続詞を取り上げている。二章までの歯切れの良さはいささか後退し、特に第三章などは強引な展開も見られる。しかし、英文法の本質は見失ってないし、第四章にも言えることだが、英語で苦しむ人間が読んで光明を探す手がかりになることは間違いない。

 僕も大学時代家庭教師で英語を教えていたが、予めこのような本を読んでいたなら、もっと教え方に一貫性が出ていた筈だ。少なくとも代名詞は機械的に変化形を覚えさせるのでなく、日本語における自己規定のあり方と、英語におけるそれの違いから教えられたのに、今更ながら悔しく思ったりもする。


 ただ、松井さんが断固として反対している英語の早期教育についての考えは、僕は全く同意できない。僕も早期教育で一件落着するとは思っていないし、もう少し体系的に整備されないと確かに逆効果かもしれない。

 しかし、例え最善ではなくても現状よりはましだと思う。少なくとも、最も羞恥心の強い思春期に日本語と全く違う発音を学び始めるよりは。本書を貫く英語圏の世界観と日本語圏のそれの距離に捕らわれ過ぎなのではないだろうか。マルクスの言葉を借りれば、外国語は闘争の武器なのだ。話し言葉としての英語を利用できてこそ初めてそれは武器になると思うのだけれど。表意文字としての日本語と、表音文字としての英語の対比が本書には抜けているように思う。文法が主眼なのだから仕方ないのだけど。

 それに「最近の中高生の国語力」などと言い出すと話は終わってしまう。オヤジの説教、などと言いたくはないし、日本語は現実として乱れている。しかし、それなら逆に問いたいのだが、「正しい日本語を話せた中高生」というのが多数派だったのはどこまで溯ればよいのか。第一そんな時代ってあったの?


 それでも本書は英文法について根本から理解したい人間(大学なんかで英語を専門にする人という意味ではないよ)にとっての優れた入門書たりえている。

 「おわりに」に本書が岩谷宏の「にっぽん再鎖国論」(ロッキング・オン社)に深い影響を受けていることが書かれてあるが、松井さんは岩谷宏に学び、これだけの本を書き上げた。僕なんかにしても、松井さんの文章にかつて深く感動した人間である。僕も松井さんから学んだものを何かに結び付けられたら、と願わずにはいられない。

 思えば僕の書く文章の文体というのは、僕が好きな作家からよりも、長年購読してきた rockin' on などの雑誌に載っていた個性豊かな文章から強く影響を受けたのだな、ということに今更ながら思い当たるのである。


[後記]:
 99年7月初旬に「お礼」と題されたメールをいただきました。差出人は何と講談社に勤めておられる方で、本書の担当編集者でした。メールには当方が書評に本書を取り上げたことへの感謝と、本書が三年かけて書き上げられた、編集者としても愛着のある仕事であったことが綴られてました。まさかそういう本書の最大の理解者からメールをいただくとは思わなかったので驚きました。感謝などされる価値のある文章ではありませんが、松井氏の文章を再び読めるという幸福を本書により分かち合ったわけです。


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初出公開: 1999年06月03日、 最終更新日: 2000年01月09日
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