yomoyomoの読書記録(1999年上半期)


ポール・オースター「幽霊たち」(新潮文庫)


石川淳「おとしばなし集」(集英社文庫)

 彼の小説は「狂風記」しか読んだことがなかった。「狂風記」のマジックリアリズム的で壮大な作品世界に触れ(後半は幾らかダレましたが)、彼のもっとコアな作品も続けて読んでみようと思っていたのだが、どうも第二ステップの機会を逃していたようだった。先日稲中がどうしても読みたくなって BOOK OFF に出向いた際、「おとしばなし集」が100円で埋もれているのが目に留まり、これは珍しいと稲中とともに購入した。

 はっきりいって「おとしばなし」の方は特に感心するところはなかった。こうした洒脱さに反応する教養基盤が僕にはないのだ。ただ「狂風記」のアナーキーさが、マジックリアリズムというよりもっと江戸、もしくは中国の古典のそれを祖とするものであるのが分かって興味深かった。それら古典が元から奔放なんだろう。そして石川淳自体が(古典の枠を借りて)前世紀文学が確立した物語の重力に捕らわれず書くことができる現代作家なんだろうな、と解釈した。丸谷才一の解説もそういうことを言いたいのだと思ったのだがハズレでしょうか、石川淳ファンの皆さん。

 本書の後半には世界名作を戯作化した小品が続くが、「小公子」「愛の妖精」に唸らされた。この二作が本書の中で物語としての重力を最も感じるものであることからすると、僕の感性が古いのかな。


須田泰成「モンティ・パイソン大全」(洋泉社)


ポール・オースター「鍵のかかった部屋」(白水Uブックス)

 この作品は「ニューヨーク三部作」の最終作に位置づけられる。「三部作」は別々の独立した作品でありながら統一性を持っている。それは追いかける人間が追いかけられ、監視する人間が実は監視されているという迷宮、そしてその入口と出口を尻尾を咥えあった作品世界の中で主人公はアイデンティティを問い直す作業を強いられる構造にある。そしてそれは作者のオースター自身の作家としての自我の問いかけでもあっただろう。

 前作「幽霊たち」よりも俗な文体であるが、今作はファンショーという超然として魅力溢れる英雄を描くことに成功している。そして当然彼はただの英雄でなしに現代的な不気味さを備え、主人公を迷宮に引きずり込む。僕ははじめ安部公房を連想したが、他者の心理に追いつめられていくところはやはりエドガー・アラン・ポーだろうか。

 物語の後半で主人公は唐突にニューヨーク三部作の他の作品(「ガラスの街」、「幽霊たち」)の名前を引き合いに出す。現代小説において、作者自身やその作品名が登場するのは珍しくもなんともないが、ここではその瞬間に作品としての濃度が変わったかのような刺激を感じた。こういう快楽が味わいたいから僕は小説を読むんだ。

 そして終末、設定があまりにも「幽霊たち」と似ているのには面食らった。結末はそれとは異なるが、僕個人としてはこの作品でこそ決定的な破綻をみたかった。訳者は「現実世界への回帰」への道としているが、それほど単純ではないように思う。ファンショーの反対側に位置する「生きる人」としてのソフィーも意外に魅力的でなかったし。

 しかし前作よりも作品世界は一回り大きくなっており、小説の魅力を十分堪能させられた。三部作で残るは「ガラスの街」だけなのだけど、「第一作から柴田さんの訳で出る方が望ましたかったかもしれない(伊井直行)」なんて書かれると、今作も柴田元幸氏の訳が秀逸なだけに読むのが躊躇われる。


永井均「ウィトゲンシュタイン入門」(ちくま新書)

 ウィトゲンシュタインについては、デレク・ジャーマンの遺作(と言っていいだろう)「ウィトゲンシュタイン」を観たとき初めて知った。何しろエイズで瀕死の状態であったジャーマンの作品であるから全体的には傑出した映画ではなかったが、金色の兜をつけた少年時代の主人公が「僕の名前はウィトゲンシュタイン。神童だよ」と登場するオープニングシーケンスを初め、非常に魅力的な断片に満ちていた。

 その事前知識と、情報認知学について勉強するあたりで彼の名前が耳に入ってくるのが気になり、とりあえず入門書を選んで読んでみた。

 しかし・・・正直に書くが、駄目だった。一割も理解できなかった。残念である。但し、彼が生涯主張を変えなかった「語りえぬもの」についてはその理解によって自分にとっての言葉(それは本質)というものをもっと整理できそうで、その鍵だけは何とか掴みかけたようだ。変な譬えだが、「語りえぬもの」についてはっきり分かっている人は退屈なコミュニケーションから逃れられているような気がする。

 前記の映画では「語りえぬもの」には直接は触れられないが、スクリーンの中で終始苛立ち続けるウィトゲンシュタインは、無限でなく彼の独我論を通した限界を見ていたのだろうか。

 時期を見計らってからまた彼に取り組んでみたい。


ミラン・クンデラ「存在の耐えられない軽さ」(集英社文庫)

 読んでみたいと時々思っても、それが文庫本にならないため機会を逃している海外文学が多い。筆者にとって読書とは通勤電車の中で主に行われるものであるので、単行本では都合が悪いのだ。そういう意味で、クンデラの代表作(映画化されたしね)が文庫本になったのはとても嬉しかった。彼の作品の文庫化が続くことを願わずにはいられない。

 さて、クンデラ初体験となった本書であるが、冒頭のニーチェの「永劫回帰」の鮮やかな解釈で浮揚させられ、その後は、軽さと重さ、心と身体、裏切りと誠実、愛と憎しみ、音楽と静寂、という風に二元論が多彩に形を変え、物語を奏でる。まるで交響曲である。時間を交錯させ、夢と現実を交錯させながら、二元論を立ち位置を変えながらこれでもかと押しまくる。二元論のみで押し切ってもこれだけ豊かな小説ができるのか、と唸らされた。「プラハの春」以降のチェコという去勢を強いられた舞台を選びながら少しも貧相ではない。但しクンデラの他の作品を読んでないから、この豊かさがクンデラの技量によるものか、汎ヨーロッパ的ブルジョアの伝統に依存したものかは現時点ではどちらと言い切れない。

 この小説の主人公はプレイボーイの外科医トマーシュと、彼の妻になるテレザであろうが、僕はむしろトマーシュの愛人であるサビナに惹き付けられた。彼女の裏切りに裏切りを重ねる姿こそが永劫回帰である。サビナのスイスでの愛人フランツの死の描写により、彼女こそが「存在の耐えられない軽さ」であり、トマーシュとテレザは愛による束縛という重さに殉じたカップルであることが分かる。

 そうした意味で、第VI部の「大行進」は、冒頭の神と糞の高説と合間って完璧なフィナーレである。実際の終末となる第VII部は蛇足にすぎないように思えるし、それがこの作品の欠点かもしれない。


レイモンド・チャンドラー「さらば愛しき女よ」(ハヤカワ・ミステリ文庫)

 探偵小説・推理小説の類を読まなくなって大分経った。頑迷な純文学信仰があるわけではないが、「頭の腐るエンターテイメント」をできる限り除外したいのだ。というか、未読の名作を辿るだけでも僕の乏しい読書時間は埋まってしまう。

 そうした意味で何故チャンドラーを読む気になったのかはよく覚えてないが、「長いお別れ」を読み、ひどくひきつけられた。チャンドラーの書くマーロウものはハードボイルドの古典であるが、これ自体に僕は間違った先入観を持っていたようだ。暴力、冷酷、非情、タフな私立探偵・・・以前僕が「ハードボイルド」という言葉から連想していたものは、その本質とは実は何の関係もなかった!

 筒井康隆が正しく解説してみせるように、その本質は語り手(チャンドラーの場合、フィリップ・マーロウ)の視点の客観性、すなわちパースペクティブに依っているのである。主人公が非情なのではなく、マーロウのパースペクティブのあり方が非情に読者に感じられるのだ。更に僕が付け加えるとすると、ハードボイルドの構造的な本質は上記の通りであるが、精神性の本質は非情どころかセンチメンタリズムに依っていると思う。マーロウの視点の非情さにも関わらず、物語に哀切さを生み出す源泉にもなっている。変な例えだが、ルー・リードの歌詞からも同様の良質なセンチメンタリズムを感じる。

 「長いお別れ」に続いて読んだ「さらば愛しき女よ」であるが、流石に「長いお別れ」の印象にはかなわなかった。明らかにチャンドラーがいい気になって書いたと思しき余計な言い回しが散見されるし、話の繋がりがいささか唐突なため物語の最後が説明的にならざるをえなかった感がある(それを言うなら大抵の推理小説はそうなのだが)。

 それでもクライマックスとなるマーロウがグレイル夫人の素性を暴き、大鹿マロイが飛び出してくる場面に興奮し、終幕のマーロウによるグレイル夫人の最後の行動の解釈にやはりセンチメンタリズムを感じてニヤリとし、もう一冊チャンドラーを読んでみよう、と誓うのである。


つげ義春「無能の人・日の戯れ」(新潮文庫)

 発行から約半年で第六刷なのだから、結構売れているようだ。単行本としても数万部売れていることからすると、つげ義春に対する需要は今も確固としてあるのだろう。つげ義春自身はここ十年作品を発表してないが、今どうしているのだろうか。

 恥ずかしいことに、僕が彼の作品を初めて読んだのは昨年のことで、評判ばかり時折耳に入る「ねじ式」を初めとする60年代後期以後の代表作を読み、本当にびっくりさせられた。俗っぽいエロティシズム、幻想と狂気、貧乏と土俗性・・・これらが全部一緒にマンガの題材になるなんて。

 びっくりさせられた、なんて何とも気が利かない表現だが、僕自身まだよく分かってないところがある。僕は「ねじ式」「ゲンセンカン主人」のような性と土俗が狂気にくるまれた作品が好きで、私小説はそれ自体余り好きではない。しかし、姉妹篇「義春の青春・別離」(新潮文庫)の方が狂気を感じる作品が多く、本書は私小説風のものが占めるにもかかわらず、本書の方が楽しく読めた。これはストーリーテリングの力だろう。陰惨極まりない「別離」も良いが、「無能の人」のもとにまとめられた六編は表現の強度が段違いである。

 彼の作品を「芸術マンガ」などと単純に称揚したくはない。安易に彼の作品の私小説性に共感はしない。呉智英が指摘する「一種の怖いもの見たさ、自分のまわりに見当たらなくなった貧乏だの生活苦だのを見てみたいという好奇心」による優越感なんて間違っている。僕はただ彼の表現の力に打ちのめされる。彼の作品における社会からの離脱意識は、塵埃に絡みとられている我々が単純が共感できる道を示してはいない。もっと別の、人間がそれぞれ持つ夢のような闇につながっているのではないか。

 竹中直人による映画版「無能の人」を観た方が先だったが、本書を読み、ちゃんと作品を理解した映画化であったことが分かり、あの映画が一層好きになった。ちゃんと理解した、というのは原作に忠実、ということだ。筒井康隆も以前嘆いていたが、邦画ではこれが少ない。鳥師が映画の重要な位置を占めるあたりも本当に「よく分かっている」。キャスティングもほぼ完璧だったし(やはり死近き神代辰巳の鳥師が格別)。

 そう言えば、あの映画の出演者のクレジットに原作者の名前を見つけた気がしたが、どこで出てたんでしょうか。誰か教えてください。


相原コージ「一齣漫画宣言」(小学館文庫)

 連載前、「一齣漫画宣言」とタイトルを聞いた時点でそれは無茶だろうと思ったし、連載時も相原コージはどうしちゃったんだ、詰まらないぞ、漫画家として終わったんじゃないか、などと否定的なことばかり考えていたが、文庫にまとめられたものを一気に読むと印象がまったく違った。面白いじゃん、これ。

 僕は「コージ苑」以来の相原コージのファンであるが、この作品からも彼の武器であるインテリジェンスは十分伝わるし、一齣である必然性のあるネタが大部分を占めているし、単にコマ数の足らない漫画でもない。連載時感じた投げやりな作品でもなかった。オナニーに執拗にこだわる相原コージの偉大なる「自らの切り売り」という方法論の誠実さは健在であった。

 確かに他のマンガに混じって週刊誌連載というのはつらいものがあったし、この文庫本にしても彼の代表作とか、後世に残るマンガなんて言いたいのではない。完全にストライクゾーンを外しているものもあるし。

 でもやっぱり面白いよ、これ。


カミユ「転落・追放と王国」(新潮文庫)

 実はこの文庫本自体は五年程前に購入済みだった。カミユは「異邦人」で衝撃を受け(特に第二部。あの小説のどこが「不条理」なんだ?)、続いてこの本を買ったが、読もうとして何度も放り投げていた。意を決して読み始めたが、量に比して読了には時間がかかった。

 まず「転落」だが、ここで主人公が語る偽善、欺瞞すら僕にはファンタジックに感じられた。それぐらい我々(というか僕)が偽善を飼い慣らして現実を生きているということなのだろうか。主人公の語り口の微妙な変化など深く読めばもっと楽しめたのかもしれないが、他人に責任転嫁させてもらうと、翻訳が下手な気がする。

 短編集である「追放と王国」、こちらも暗い。しかし「転落」よりは楽しめた。短編小説のお手本のような「不貞」「客」もいいが、「背教者」により興味を持った。こうした土俗性を満ちた異教的な作品をもっとものにすることで、カミユは自然児としての本領を発揮できたように思うのだが。

 最後に暴論かましておくと、カミユとサルトルの関係は、かつてのユングとフロイトのそれに似ている。つまり、後者の評価され過ぎ、前者の評価されなさ過ぎ、である。確かにサルトルの評価も随分と落ち着いてきた。山形浩生氏は、「たぶんいずれどこかでどーんと読みなおされて復活するだろう」と曖昧なことを書いていたが、それすらない、と思う。あったとしても、それは実に詰まらない話だ。対してカミユの「異邦人」は、柳の下の幽霊のような思想性の評価でなしに、古典としての強さを更に増してくる筈だ。


松井力也「「英文法」を疑う」(講談社現代新書)


村上龍「イビサ」(講談社文庫)


[読観聴 Index] [TOPページ]


初出公開: 1999年01月19日、 最終更新日: 2002年06月17日
Copyright © 1999, 2000 yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)