ケン・スミス「誰も教えてくれない聖書の読み方」(晶文社)


表紙

 書評に入る前に、当方の宗教的バックグラウンドについて書いておく。

 思考法がクリスチャン的と評されたこともある当方であるが、本当にクリスチャンだったりする。洗礼名はパウロである。ただそれは、そういう事実があるというだけの話で、単に父親の家系が皆洗礼を受けていたから僕も受けたに過ぎない。父親は、遠藤周作の代表作「沈黙」の舞台にして、彼の記念館もできた長崎県西彼杵郡外海町の生まれである(この辺りについてはいつかちゃんとした文章にしたい)。僕の祖先は、隠れ切支丹(註:「潜伏キリシタン」の方が正しい表記なのではないかという指摘を受けた。現在山川の日本語教科書でもそうなっているようだ)の水呑百姓だったのだと思います。

 成長過程において、キリスト教が果たした役割というのは、実はまったくない。家族で信心深かったのは祖母だけで、両親が驚くくらいその方面に無頓着だったため、その子ども達はロクにミサに足を運んだことがないという体たらくである。

 かくして現在僕は、基本的には無神論に与しているが、その一方で日本的な汎神論も都合良く利用する狡猾さも備えている(確か島田雅彦も指摘していたと思うが、この二つは実は相性が良い)。自分のことを「敬虔なクリスチャン」などと称しようものなら、必ずや天罰が下るに違いない。勿論、これは、神が存在したら、の話であるが。


 さて「誰も教えてくれない聖書の読み方」である。皮相な感想は既に書いているが、確かに稀有な聖書ガイドと言える。といっても、奇をてらった深読みをするのでなく、実に素直に聖書のみを頭からちゃんと読んでいき、平明に抜き出しただけであり、それが本書のように聖書のとどまるところを知らないヘンテコさを浮き彫りにするというのはすごい話である…とは僕はまったく思わない。というか、本来そういうもんでしょ。ただ長年にわたるプロパガンダのために、我々がそうした狂信性という宗教の本質を忘れているだけで。

 前述の通り、僕は「なんちゃってクリスチャン」であり、その方面に関する素養は他の一般的な日本人と変わるところはない。聖書そのものからでなく、ドストエフスキーなどの文学からの引用で知ったことの方が多い。レギオンの豚の話にしろ、「一粒の麦」の話にしろ。

 だから主に旧約聖書に記述される神様の暴虐さについては、部分部分は知っていても、ここまでそれが全編を貫いているとは知らなかったので、さすがに驚かされた。また「オナンの罪はオナニーじゃねえぞ」というのは以前から僕自身主張していたことなので、本書でもそれが書いてあったので嬉しかったりする(彼の罪は膣外射精、つまり女を妊娠させなかったことなのだけど、その相手って義理の姉なんだからさ…)。


 非常にユニークであり、内容の面白さも太鼓判を押せる本書であるが、一方で違和感も感じる。

 本書では、取り上げたエピソード毎に(必ずではないが)、「残念でした」「天罰じゃぁっ!」「セクハラ」といったアイコンがついていて、聖書に出てくるトンデモな部分、残虐な部分だけを目grepすることができるという便利な使い方もできる。しかし、それで本当に良いのかい、という気もする。勿論、本書は飽くまで「ガイド」であり、本当のところを自分でしっかり理解したいなら、聖書を自分で読んでみることである。そういう気にさせるという点で、著者の功績はとてつもなく大きい。

 そこまで立ち戻らなければならないくらい、我々(がキリスト教徒であるかどうかに関係なく)は聖書から離れてしまったのは間違いない。それは自らの拝金主義を「もてる者は一層与えられん」の一言で正当化する(もちろんこの言葉はそういう文脈で言われたのではない)テレビ伝道師に限らない。その換骨奪胎は訳者解説においてビル・ゲイツ(!)に擬せられているパウロに始まり綿々と続いてきた流れでもある。

 しかし、そうした換骨奪胎を経ても、個人的な祈りの対象となるような純粋な聖性は残っていると実は無神論を気取る僕も心のどこかで思っていたりする(そう思いたい)。しかし、キリスト教原理主義を名乗る連中の現実を見るにつけても、それは何と遠い道だろう。


 あと書いておかなければならないことに、著者による解説自体もまた公平ではないことがある。これ自体著者も認めていることであるが、例えば僕が疑問に思ったところを挙げると、

「主よ主よ、なぜ我を見捨てたもう」というのは、イエスがはりつけのときに思いついたせりふじゃない。実はこれ、詩篇22の出だしの文だ。それどころか、ダビデの時代に書かれたはずの、この詩篇22の中身の多くは、キリスト臨終前の数時間のできごとにそっくり。(中略)もし詩篇22の執筆時期を認めるなら、これは預言か、すごい偶然か、あるいは手軽なもとネタとして後に盗作されたか。さてどれだろうね。(91ページ)

 という風に詩篇22の執筆時期を疑っているのだが、そんなもんだろうか。本当に後から執筆されたとするなら、どうしてイエスに「主よ、どうしてオイラを見捨てるのよん」という情けない言葉を吐かせているのだ。これをもって「イエスは臨終間際に神に対する憎悪の言葉を述べた」みたいな文章をみかけてのけぞることがあるのだが、詩篇22はこの後、神を賛美する内容に転調していくのだ。だからこそ、イエスがこの後に呟く詩篇31の「主よ、我が魂をあなたにたてまつり候」(みたいな内容で、もちろんこの通りじゃないよ。手元に聖書なんかないので勘弁して)という神への全面的な信頼の言葉がつながると思うのだが。

 はじめっから後の聖書作者による主催者側発表なのだから、それだったら「主よ主よ、なぜ我を見捨てたもう」なんて言わせずに、もっとかっちょいい内容にしたはずだ。そうしなかったのは、単純にイエスが詩篇22と詩篇31の冒頭を呟いた(大体磔にされた人間が朗々と詩篇を通して暗誦できる余裕があるわけはなく、冒頭の一言で、ユダヤの民はその後に続く言葉と内容を理解できていた)だけだと僕は思うのだが、これ如何に。著者が「キリスト臨終前の数時間のできごとにそっくり」の部分が後に付け加えられたというならあるかもしれんが。

 そうした意味で、本書を読むにしても、鵜呑みにしない懐疑的な心を忘れてはならない、ということだ。著者だってそれを望んでいるだろう。


 最後の山形浩生による翻訳に触れておくが、「この人は、なんでまたいつもこうなれなれしい口調で訳すんだろうか」(風野春樹)、「訳者の若さがかなり鼻につく」(鈴木輝一郎)といった悪評もあるが、本書を日本に紹介するのに、彼の存在、並びに彼の翻訳以外では考えられなかったのは間違いない。非常に親切な(これが一部の人には余計なスタンドプレイに見えるのだろうか)「聖書のあらすじとあとがき」を読むとそれを痛感させられる。

 山形浩生という人は、信じられないくらい良心的で、実際的であり、そして狂犬的だ。


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初出公開: 2001年03月21日、 最終更新日: 2005年05月08日
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