yomoyomoの読書記録(2001年上半期)


小松左京「くだんのはは」(ハルキ文庫)


嵐山光三郎「文人悪食」(新潮文庫)

 日本文学史上に残る文士達にまつわる「食」の話題を通してその文学を解き明かそうとする本である。食にポイントを合わせたところがかつて編集者であり、現在もその感覚を失ってない著者ならではである。

 本書に登場する作家にしても、泉鏡花の病的な潔癖症などその性癖がよく知られたものもあるし、壇一雄や池波正太郎のようにその作家自身と食との関係がよく知られた人もいる。しかし、著者はそうしたところも十分に織り交ぜながらも、飽くまで彼らの作品に登場する食からその文学を語っていて、それにより本書は単なる作家に関するゴシップ集でなく、一個の独立した批評足り得ている。勿論、雑学のために読むにしても本書は十分に面白い。

 ただ批評は批評として、それが全面的に成功しているわけではなく、それは取り上げた作家によってマチマチであるように思う。不相応に誉めていて馬鹿みたいな志賀直哉や、その逆にハナからけなそうとかかる小林秀雄の章は、読者として白ける。個人的には歌人・詩人関係の章がひどく面白かったが、これは単に僕が短歌や詩といったものに普段全く興味を示すことなく素通りしているので珍しかっただけかもしれない。

 本書の評価とは別のところでぼんやりと思ったことが二つある。

 一つは、つくづく文士というのはロクでもない人間がやる商売だということ。中原中也のとどまるところを知らない傍若無人ぶりといった有名どころから、現在では何故か道徳的手本のような扱いになっている宮沢賢治(当代最も過大評価されている文学者の一人)に至るまでそれは変わらない。「死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人をゆるしてもらいたいと思います」とは本書に引用される、林芙美子の葬儀委員長を務めた川端康成の挨拶の一節であるが、犯罪者でもないのにそこまで言われる人間などそうそういない。もちろん彼ら彼女らがろくでなしであることとその作品の評価は別である。

 あと一点思うのは、本書のような批評に収まってしまう日本文学のスケールの小ささだ。僕は、小学生の頃読んだ芥川や鴎外の短編が文学の原体験にあたる人間で、その後も日本文学に長年親しんできたから、上のようなことを言う人間に反感を持っていたのだが、こういう本を読んでそれを思うのは少し困ったなという気持ちが残った。


チャールズ&メアリー・ラム「真夏の夜の夢」「ロミオとジュリエット」「あらし」(SOGO_e-text_library)

 これまで読書記録に取り上げたものは全て文庫本などの書籍の形で読んだものであり、オンライン上に公開された作品は取り上げてなかった。自分自身ウェブページを持ち、そこで読書記録を書いている人間としては、明らかに片手落ちである。

 そこで手始めに、SOGO_e-text_library に収録された、「真夏の夜の夢」「ロミオとジュリエット」「あらし」の三つを取り上げさせてもらう。タイトルを見ればお分かりの通り、いずれもシェイクスピアの作品であるが、チャールズ&メアリー・ラムによる "The Tales from Shakespeare:Designed for the Use of Young People" に収録されたものを翻訳したものである。

 これらはすべてプロジェクト杉田玄白に登録されたものであるが、sogo さんをはじめ参加者も増え、20世紀中に登録作品が百をこえた。登録作品の数では、青空文庫などと比較できるレベルにないが、かつて「yomoyomo のクレジットが埋もれるくらいの参加作品が登録されれば」と書いた当人としては、喜ばしいことに違いない。

 ここまで来れば、登録作品の意義にも多様さがでてきて当然であり、またそうあるべきだ。sogo さんが訳されたシェイクスピア作品のジューブナイル版にしても、タイトル通り小中学生への入門編としても(これからの世代は本を手に取るよりパソコンに触れるのが先になるかもしれない!)、シェイクスピアを読んでみたいとは思ってはいたが、なかなか手を出せずにいた人にとっても、非常に有意義だろう。これは sogo さんも「真夏の夜の夢」のあと書きに書いていることだが、戯曲形式に馴染めないという人は多いだろうし。「あらし」(テンペスト)は特にそうで、訳者があと書きで触れている後の研究対象になる作品構造も分かりやすい。

 「恋におちたシェイクスピア」という映画があったが、あれは単独に観ても楽しめる娯楽作品である。しかし、そうでなくこのジューブナイル版「ロミオとジュリエット」を読んだだけでも、ノーマン&ストッパードによる脚本が、実にしっかりと「ロミオとジュリエット」などのシェイクスピア作品をあの作品に織り込んでいるか分かる筈だ。そして、シェイクスピアが教養基盤の一部になっている欧米の観客は、すんなりあの映画の作品映画の様々な「とっかかり」を楽しみながら入っていけるのだろう。

 sogo さんによる訳も丁寧で、ジューブナイル版とはいえ原文の饒舌さの雰囲気を残した複雑な英文を、実にしっかりと読み砕いているように思う。それこそ「恋におちたシェイクスピア」の脚本が軽妙なエンターテイメント足り得たのと同じ理解の質を感じるのである。


ケン・スミス「誰も教えてくれない聖書の読み方」(晶文社)


米本昌平他「優生学と人間社会」(講談社現代新書)


斎藤貴男「カルト資本主義」(文春文庫)


加藤弘一「電脳社会の日本語」(文春新書)


河口俊彦「人生の棋譜 この一局」(新潮文庫)

 河口俊彦の文章をはじめて読んだときは、氏独特のシニカルな文章にひどく驚いたものだ。史上最強の棋士である大山康晴十五世名人を指した書かれた「大山の将棋の底には、人間蔑視の眼が光っている」といった文章に、「この人はこんなことを書いて将棋界で大丈夫なのだろうか」などと心配したのを覚えている。今となっては笑ってしまうが。

 「将棋界 奇々快々」(NHK出版)の中に、どうして君は自分が負ける理屈が分かっていてなおかつ負けるんだ、と作家の故井上光晴に呆れられ、「私は棋士であって棋士でない」と悟る場面があるが、その認識・立場が彼の文章を支えているように思う。彼自身棋士であるから将棋界について深く文章が書けたのは間違いないのだが、棋士としての才能がないから圭角を立てずに済んできたのだろう。それは氏の畏友にして同じく良質の批評家であった芹沢博文が、「天才」の称号を冠せられるほど将棋の才能があり、同時に名人になれるほどの才能がなかったため破滅的な生涯を送らなければならなかったのと対照的である。

 「我々将棋ファンは長年「河口史観」を受け入れる形で将棋界に接してきた」という名言を書いた人がいるが(ワシだワシ!)、おいらは将棋なんか指さないよ、という人でも「月下の棋士」を読むことでその一端に洗脳されているのかもしれんのだよん(河口俊彦はあのマンガの監修者)。

 批評家としての河口俊彦の文章は、本書においても十分に堪能することができる。というか、この点について彼は不変なのだ。氏は現状維持志向が過ぎる将棋連盟の体質について皮肉めいたことを書くが、その志向は氏の批評眼についても言えることである。その意固地さが棋士気質だと言われればそれまでかもしれないが。

 本書を読んで何より深く心に残るのもこの「棋士気質」というものだ。弱い棋士を指し「彼は人柄が良いから勝てない」とか、歴代永世名人を並べて「大山や中原が勝ちつづけるのは、日常の行いですきを見せないからである。谷川浩司も同じだが、人格に非の打ちどころがない分人間的な迫力に欠ける」といった文章を将棋界を知らない人が見たら、くだらない逆説か誤植に見えるのではないだろうか。しかしそれが本当のところであり、将棋界は唯格論に支配されたムラ社会なのである。

 昭和60年代以降の河口俊彦の文章の表のストーリーの主人公は、鮮烈なデビューを飾り、遂には前人未到の七冠制覇まで上りつめた羽生善治に違いない。しかし、僕が彼の本を好んで買い、読むのはその裏側が好きだからだ。そちらの主人公は、A級陥落(それは即引退を意味した)の危機を毎年迎えた晩年の大山であり、タイトルをすべて失い苦闘する米長邦雄である。

 その大山が癌を患いながら陥落どころか、名人挑戦者へのプレーオフに残るまでの奇跡的な戦いを見せた後まもなく鬼籍に入り、米長が7度目の挑戦にしてこれまた奇跡的な名人位を獲得するところが入っている本書は、一つの区切りになっている。


筒井康隆「悪と異端者」(中公文庫)

 本書が単行本として出たとき、僕はまだ大学生だった。断筆宣言からそれほど経ってない頃で、大学の生協で興奮しながら立ち読みした記憶がある(買えよ)。先日とっくに文庫に入っているのを見かけて、自分の迂闊さを戒めつつ購入したのだが、単行本時に読んだときは、もっと毒が強い本だというイメージがあったのだが、通して読んでみると全編そうだというわけでもなくいささか拍子抜けでもあった。これは、初めて読んだ当時の断筆宣言という時期性、そしてそれを間違いなく意識して付けられたであろう本書の題名のイメージが強かったのか。

 収められた文章はエッセイあり、文学賞の選評あり、追悼文あり、他人の本のあとがきあり…と多岐に及ぶのだが、やはり毒を感じる前半に収められた文章が楽しめる。もちろん元から筒井康隆のファンである当方からすれば後半に収められたいかにもエッセイ然とした雑文も楽しめるし、その中にも町田康による解説でも触れられている「「影武者騒動」の現代性」といった、秀逸な現代批評足り得ている文章も含まれるのだが。

 あと面白いのが、三島由紀夫文学賞選考委員としての選評で、以前著者が、自分が推し、そして他の選考委員の賛同を得られず受賞できなかった人達が後に芥川賞などを取り、活躍している現状を嘆いているのを読んだことがある。前述の町田康や柳美里や(ちょっとケースとして違うが)小林恭二のことを指しているのだが、実際の選評を読んでも、あと彼が行う書評を読んでも思うのだが、筒井康隆はこうしたところでひどく良心的で、正直である。

 それが報われているとは限らないのが日本という国の悲しいところで、実際筒井康隆にしても、それが報われているとは到底思えないのだが。


坂口安吾「堕落論」(新潮文庫)

 安吾の「堕落論」並びにそれと時期を同じくして書かれた評論文は、とっくに読んでいる。何しろ僕が初めて読んだ安吾の本は、角川文庫の「堕落論」であり、それ以来安吾は僕の中で最重要な作家の位置を占めつづけているのだから。

 それでもなお本書を購入したのは、まず未読の作品がいくつ収められていたこと(安吾ファンを名乗りながら恥ずかしいのだが、全集は持たんのだ)、本書が「新潮文庫20世紀の100冊」という少し変わった企画の一冊であったため、そして何より柄谷行人が「坂口安吾とフロイト」という解説を書いていたためだ。KAZU さんが書いた安吾論のタイトルが「安吾 ラスト・フロイディアン[安吾文学の構造分析]」であり、その符合に驚き、両者の違いを読み比べてみたかったのだ。

 結論から言うと、「安吾のファルスを分裂病の妄想と同一視してみる」という KAZU さんの緻密な試みと異なり、安吾がフロイトの初期はもちろん「フロイトの方法はダメだという唐突な確信をいだいた」(精神病覚え書)以後も実は、後期フロイトと同じ道を辿っていたという概観的なものであった。それ自体は魅力的なものであるが、江藤淳の「成熟と喪失」を(批判的に)引き合いに出したがったために、「彼には「母への密着」はまったくない」などという決定的な誤りを犯している。でも何が目的で「成熟と喪失」を持ち出したのだろう。

 「FARCEについて」「文学のふるさと」「日本文化私観」「堕落論」など太陽のごとき評論文はこれまで何度も読んできたものなので、特に語るところはないのだが、再読して一つ「唐突に確信」したのは、彼の強者志向である。

 何かにつけて「勝ち組」「負け組」に分類したがる世相に僕はずっと反感を持っていたのだが、そうだったのだ。「勝者志向」と「強者志向」は別物である。僕も強者志向でありたい。今の僕は自他ともに認める弱者であるが、そこに安住したいとは思わない。僕は弱者よりも強者の方が好きだ。でも、それと勝ち負けはまったく別物なのだ。それを分かってない人生の何と空しいことだろう。もちろん弱者に甘んじることも同じ様なものなのだが。


近田春夫「考えるヒット」(文春文庫)

 近田春夫という人は日本のポップミュージック史上決定的に偉大な存在で、後に「日本のポップ・ロック史」のような大部の書物が書かれるとき、それこそ細野晴臣や忌野清志郎や桑田圭祐と並んで大きくページを割かれるべき人である。

 その彼の優れた批評性を毎週堪能できるのが、週刊文春に連載している「考えるヒット」であり、元々米長邦雄の連載を読むために週刊文春を立ち読みしていた当方が、米長の連載終了後もなるべくそれを立ち読みするようにしているのは(買えよ)、先崎学の連載などどうでもよく、「考えるヒット」とナンシー関の文章が読みたいためだ。そして毎週「どうして中野翠とピーコの映画につける点数は、判で押したように正反対なのか」などとどうでもいいことを考えるうちに貴重な二十代は夢のように通りすぎていく。

 話が逸れたが、本書はその連載の書籍化第一弾にして、少し前に文庫に入ったので(以下略)。本書がカバーしているのは1997年で、小室哲哉全盛期であり、本書も「小室哲哉」という存在を一つの軸にしている。「小室哲哉=電脳ヤンキー」論など、やはり近田春夫の批評眼はここでも秀逸である。

 この「考えるヒット」というのは、言うまでもなく小林秀雄の「考えるヒント」のもじりである。近田春夫はこの連載の依頼があった時点でそれを知らなかったのだが、そのあたりについて書いた「縁は異なもの――まえがきにかえて」はとても素敵な文章である。

 あと島森路子との対談を読み(彼女がこういう対談をちゃんとできる人だとは思ってなかった)、小室と同じく大きく割かれているのが小沢健二で、何か月日の流れを感じる。小沢健二は岡村靖幸になってしまうのだろうか。


山形浩生「山形道場」(イースト・プレス)


町田康「夫婦茶碗」(新潮文庫)

 町田康の小説は、以前「くっすん大黒」を単行本で読んでいて、面白いとは思ったが、一方で完全にはついていけない感じがしたのも事実であった。要は僕の文学観が古いのだろうが、少し前に文庫本の新刊として出ているのを見かけたので買ってみた。

 本書は「夫婦茶碗」「人間の屑」という二編の中篇からなっていて、いずれも楽しく読めた。僕が「くっすん大黒」を読んで感じた戸惑いは、芥川賞や三島賞の選考会で彼の作品を推せなかった選考委員が感じたところと近いものなのだろうが、本書を読むまでに、著者が貫徹しようとするものいい加減さを受け入れることができる準備ができていたということか。ただやっぱり読んでいてバカばかしさを感じて苛ついてしまうところがあるのも事実だが。

 筒井康隆は解説で、「人間の屑」における「狂気への志向」について触れている。僕は寧ろ「夫婦茶碗」の方にそれを強く感じた。「人間の屑」の方は、意外にも町田康のストーリーテラー(!)としての才覚を感じる作品で、いずれも「くっすん大黒」を越えているのではないだろうか。

 下条さんは「くだらな日記」で本書の感想として、「雑文をずっと引き伸ばしていけばこのような小説になる」といったことを書かれていたように思うが、それは納得するところもあり、承服しかねるところもあるような……うーむ、もう一冊ぐらい著者の小説を読んでみようかしら。


桜井亜美「alones」(幻冬舎文庫)

 「僕の生活には潤いというものが足らないのだよ」と女友達に、それこそ町田康のように嘆いてみせたところ、本を二冊貸してくれた。いずれも通常なら絶対読まないような本なのであるが、こういうのもたまにはよいだろう。

 で、これがそのうちの一冊。東大受験を控えた、勉強ができることをアイデンティティーとしてきた女子高生が主人公。

 ほう、最近の若い人はこのように小説を書くのですか、音楽などの題材を扱うのですか、新鮮でした、という…いや、こういうのってどういうことを書いていいのか分からんのだ。別につまらないとか陳腐だとか思ったのではないのは書いておかなくてはならないだろう。


狗飼恭子「雪を待つ八月」(幻冬舎文庫)

 で、これが二冊目。

 恋人達二人の終わりの一月について書いた作品。ラブストーリーであるが、物語の中で何か特別な事件が起きるというのではない。精神的な意味で右往左往した挙句、最後まできて、主人公はある認識に達する、それだけである。ある認識に達し、ある価値基準に達する(考えてみれば上の「alones」もそういう点では同じだな)。

 逡巡に感情移入させる芸があるし、前述の通り地に足のついた確かさを持っているという点で、信用に足る物語だとは思ったが、著者によるあとがきを読んでいささか気持ちが悪くなった。

 僕が過敏なのか、自分のことを赦せないのがいけないのか…


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初出公開: 2001年02月05日、 最終更新日: 2001年07月09日
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