斎藤貴男「カルト資本主義」(文春文庫)


表紙

 「機会不平等」といった近刊も好評の著者のことは、本書に寄せられた書評で知った。以前から読んでみたいと思いながらそのままになっていたのだが、例によって文庫本になっているのを見つけて早速購入した。

 バブル崩壊後の「失われた10年」といった言葉に代表される日本経済の自信喪失につけこむように幅を利かせ出した終末思想、オカルティズムの蔓延についてのノンフィクションである。多用な媒体で散発的に発表してきた原稿が元になっていて、いくぶん整理が足らないところもあるが、いまだ十分な価値を持った本である。ちょうど今出ている「噂の真相」の「メディア異人列伝」に著者が登場していて、『世界』と『週刊文春』の両方で書いていることについて触れていたが、そうした意味で確かに著者の立ち位置は独特であるし、同時にとても貴重なものだ。


 今でこそ我々も大分事情を知るようになったが、一見バラバラに見える動きが、ニューエイジ思想を背景にしたニューサイエンスをキーワードにして見事に結びつきを見せている。前述の通りバブル崩壊後、既存のパラダイムに懐疑的にならざるを得なかった時代的背景、我々日本人になじみがよく口あたりもよいという文化的背景もその隆盛に幸いしてしまった。

 本書は90年代中ごろのルポであるが、当然ながら現在我々はその延長上に生きていて、本書で糾弾されるカルト資本主義は過去のものではない。「オカルトビジネスのドン」船井幸雄、「オカルト神秘主義の語り部」稲盛和夫が消え去ったわけではないし、彼らが説く人間としての主体性を麻痺させる超越思想は、日本企業のマジョリティである中小企業レベルにおいては、日本経済の更なる閉塞状況とあいまって、さらに勢力を増していると思う(個人的には、「優生学と人間社会」を読んだばかりだったので、彼らが時折説く俗流優生思想が特に興味深かった)。


 本書以後の日本社会と「カルト資本主義」とのつながりについて特に興味深いのは、文庫版のあとがきでも触れられている、構成員の思考停止のあらわれといえる企業不祥事であったり、知的空白を背景に成立、もしくはその方向に進む盗聴法、国民総背番号制であったりするのだが、特に後者は本書で名前の挙がる中山太郎元外相、梶原拓岐阜県知事といった人間が推進に手を尽くしている現実を見ると、「カルト資本主義」はソニー、松下、NEC といった大企業を飛び越え、既に国政レベルにおいて実践段階(!)に入ったのかもしれない。

 著者の日本社会における個別化の原理を阻害するものへの怒りというのは一貫していて、著者の本書以後の「プライバシー・クライシス」「機会不平等」といった仕事につながっていることがよく分かる。そうした意味で斎藤貴男という人は、本当に筋の通ったノンフィクション作家だ。彼にしろ、一橋文哉にしろ、佐野眞一にしろ、近頃確実に時代をえぐる仕事してるノンフィクションと比べ、フィクションの分野でこれらに匹敵する仕事をしてる人がどれぐらいいるのだろうか。それに自覚的に取り組んでいる村上龍ですら結果としては玉石混交だ(←悪い方に軸足を置いた用法)。


 文庫版のあとがきに著者は、「願わくは、思考停止がこれ以上進まない社会であってほしい」と書く。しかし、前述の施策が国民的な議論を呼ぶことなく現実化していることを見ても、悪くなる一方にしか見えない。もはや後世の日本人が笑い飛ばせるような段階でないと思う。日本はもう駄目だ、みたいな言説はこれもある意味思考停止につながるし、何より聞き飽きたものであるので不愉快なのだが、そうとしか言えない。そして、それは僕が高みに立って評論家ぶった結果ではなく、五年間サラリーマンとして生きてきて、飼いならされ、思考停止への過程を経験した実感でもある…

 本書で槍玉にあがった人たちの中で唯一例外がいるとするなら、ソニーのオカルト重役天下伺朗、こと土井利忠である。いわずと知れた、「AIBOの父」である。NHK のドキュメンタリーではそうでもなかったが、日経エレクトロニクスでのレポートを読むと、彼の嗜好性がちゃんと AIBO のコンセプトに活かされていることが分かる。僕自身は、AIBO という商品自体は肯定的にとらえているのだが(欲しいとは思わない)、土井利忠氏と他の本書の登場人物を分かつものが何かあったのだろうか。ESPER 研究室のことを槍玉にあげられながらも、現在勝ち組企業の代表たるソニー本体とあわせ興味があるのだが、どんなものだろうか。


[読書記録] [読観聴 Index] [TOPページ]


初出公開: 2001年04月23日、 最終更新日: 2001年04月23日
Copyright © 2001 yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)