本書については、森山和道氏と加藤弘一氏の書評を続けて読む機会があり、これは面白いかもと思い買ってみたのだが、これは大変な本で、大袈裟に言えば、21世紀を生きる上で踏まえなければならない前提が多く含まれている。本書については、以前からじっくり取り組んだ文章を書きたいと思っていたのだが、どうしても考えをうまくまとめることができないうちに時間ばかりが過ぎてしまうので、とにかく記録として書き留めておく。それだけの価値のある本であることは保証する。
本書の帯にも書いている通り、「優生学」と聞いて誰もがまず思い浮かべるのは、ナチスの優生政策だろう。そして反射的に優生学というものを約半世紀前のナチスの政策と同一視し、タブー視したところで思考停止しがちである。しかし、そんなに単純なものではない。本書はまず、優生学の起源を明らかにすることで、「優生学といえばナチス」「優生学=極右の学問」といった固定概念を覆し、各国における優生学の代表的な展開を解き明かす一方で、優生思想が過去の遺物でもなんでもなく、現在もなお我々の生に影を落としていることを冷静に記述している。
優生学の起源の話で面白かったのは、やはり優生学が多くの自由主義者、社会主義者の社会改革の思想的バックボーンになっていたという事実で、優生学の父と言えるフランシス・ゴルトンがダーウィンのいとこであり、社会ダーウィニズムとの結び付いて、そして優生学が当時最新の科学的真理と考えられたことからみても、ある意味自然なことだったのだろう。「優生学→人種隔離→巨悪」という固定観念に囚われている人からすると、優生学が反戦平和主義に論拠を与えていたという事実は驚きだろう。本書に記述される、逆淘汰などのいくつかの理論は奇怪でもあり、また非常に興味深い。
また当然優生学の実践において、各国でそれを推し進める背景、論拠、形態は異なるわけで、著者がドイツ、北欧、フランス、そして日本という風に国別で章分けしているのは正しい。特に90年代以降明らかになり、多くの人達に衝撃を与えた福祉国家先進国であるデンマークなどの北欧における断種法などによる積極的な優生政策は、それを成し遂げたのが(当たり前だが)ナチスでなく社会民主党政権であることを見ても、ヒューマニズムの裏面を知ることができる。
そしてそうした過去を踏まえた上で、21世紀に生きる我々に優生政策と我々はどのように関わり合うのか、ということになるのだが、本文のはじめの方にも書いた通り、優生学は過去のものではないことは間違いない。それどころか、優生学は21世紀にこそ再び力を増すだろうと僕は思う。
加藤弘一の書評を読むと、優生学自体が過去の遺物であるかのような印象を受けて不満なのであるが、彼が最後に脳死臓器移植を引き合いに出しているのは慧眼かもしれない。そうした論理的同型性を見抜く力を持ち合わせることができるかどうかで、我々の生は大きく変わるはずだ。
しかし、僕の目にみえる見通しはとても暗い。グローバリゼーションという名のアメリカ化が、それ自体イデオロギーの一つであることすら忘れられて正義の御旗となり、効率化と集約化に反するものは排除される傾向は既に現実のものとなっている。もはや社会システム自体が人間を必要としないどころか、人間を排除する素地は既に確立されているのだ。そこにアメリカ的な自己決定権が加わったとき、我々は優生政策を斥けることができるだろうか。「自己決定だから優生学ではない」という主張が成り立たなくなっていることは本書でも説かれている。
僕は、もはやそれを避けて生きることはできない、と思う。それはグローバリゼーションが大枠として不可避なのと同じことである。出生前診断による自己決定が、優生学的効果をもたらしていることをどうして否定できよう。それは解釈の問題ではなく、もはや一個の事実である。そして、それ自体を悪だとして排除することももはやできない。本書の最終章において米本昌平が主張する「制度的介入」で抑えられるものではないのではないだろうか。
僕が不安を持つのは、その不可避とも言える優生学的効果が安易な効率性と結びつくことである。その意味で僕は優生学と臓器移植に論理的同型性を見るのである。臓器移植が医療の最先端だと見なされ金がつぎ込まれる一方で、脳死手前から脳死にいたるまでの患者を救う医療は確実に切り捨てられ、退化するのと同様、出生前診断などが集積された結果、そこから排除された病気を治療する医療が先細りしてしまうに違いない。避けられると分かっていることに対し、どうしてリスクを負うのか、コストをかけるのかと問われたときに我々は答えを出せるだろうか。答えを出せないなら、効率性が暴走を始めるのを止めることなどできない。それに医療の現場においては保険・福祉適用の目が厳しくなり、アカデミックな場にしろ、成果重視主義、実学至上主義の流れが既定路線になっているご時勢である。
過去の優生学を我々が嗤うことができるのは、それがナチズムや民族主義などの非科学的イデオロギーをバックにしているか、そうでなくても現代の医学からすれば稚拙な遺伝理論や人体測定学などに依っているからだ。しかし現代においても、クローン人間の可能性や遺伝子療法がマスコミで華やかに伝えられる一方で、それが現在においても不確定な要素を多分に持っていることは意外に知られていない。ヒトゲノムの解読にしろ、それ自体はスタート地点に過ぎない。
その程度である我々が、優生学を最新の科学的真理だと見なした20世紀初めの人達とどれだけ違うというのか。小林秀雄の表現を借りるなら、「科学の成果を、ただ実生活の上で利用するに足るだけの生半可な科学的知識を、我々は持っているに過ぎない。これは致し方のない事だとしても、そんな生半可な知識でも、ともかく知識である事には変りないという馬鹿な考えは捨てた方が良い」のだ(「常識」より)。
最終章において、著者は「新たなパラダイム構築の必要性」を説く。それは間違いない。しかし、そこに至る道の何と遠いことか。(戦前よりもむしろ)戦後に優生政策がとられ、後に主に国際社会での対面を保つために優生保護法の名称を急いで変えるといった、場当たり的で臭いものに蓋的な対応に終始し、ナチズムという過去を背負うドイツ、徹底的な過去の調査を行ったヨーロッパ諸国と異なり、批判的な総括を怠ってきた日本ならばなおさらである。
そうした意味で森山和道さんの「どういう結論を導き出せばいいのかさっぱり分からない」という嘆きは、僕も共有するものである。僕としては、本書のような優れたテキストを参照しながら、過去色んな人間がはまった落とし穴に気を付けながら、考えを巡らすしか今のところできない。先程小林秀雄を引用したが、最後にもう一つ「考えるヒント」を読み返す内に行き当たった文章を引用しておく。僕は小林秀雄の批評に特に与する人間ではないが、「医学への盲信的従属」といったところに収まるものでなく、これは我々の生そのものに関わる問題なのである。だから腰を据えて考えないといけないのだが、自分なりの倫理のあり方を確立できるだろうか。
考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿気た事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。(中略)だから考えれば考えるほどわからなくなるというのも、合理的に究めようとする人には、極めて正常なことである。だが、これは、能率的に考えている人には異常な事だろう。(「良心」より)