小松左京「くだんのはは」(ハルキ文庫)


 恥ずかしい話だが、小松左京を初めてまともに読んでみた。小松左京は何よりSFなのだから入門編としてこの本は適切ではないのだろうが、日本の現代文学の中で一二を争うほど怖いという「くだんのはは」を読んでみたかったというのがあったので、本屋で見つけたときには反射的に手を伸ばしていた。

 しかし、その小松左京をして、現在最も文庫本がまとまっていて入手しやすいのがハルキ文庫というのは一体どうしたものだろう。

 楽しみにしていた「くだんのはは」であるが、これは評判通りであった。何より太平洋戦争末期の描写が的確で、それが本作のアクチュアリティを支えていて………あー、ダメだ、ダメ。やってられない。いや、「くだんのはは」は前述の通りの秀作ですよ。でもねえ、この文庫本の装丁がネタばれなのだよ。こりゃないよ、一体どういうつもりで装丁したんだ?

 僕のように今更ながら小松左京の「くだんのはは」を読んでみようと思われた初心者は、ハルキ文庫以外の本に収録されたのを探すか、本書の表紙を見ないようにしてレジに持っていき、カバーをかけてもらいましょう…って一体何を書いているんだか。


 あと本書には「女シリーズ」に分類される短編も多数収録されていて(また本書に収録された短編は、所謂「女シリーズ」でなくても、主題的にこの系統のものを中心にセレクトしたようだ)、こちらも以前から読んでみたかったのだが、かなり楽しめた。

 このシリーズでは、SF的なアイデアはあってもそれが中心にくるのではなく、それらは飽くまで主人公となる女を描くことに奉仕していて、多くは最終的にもはやSFにも怪談にも人情話にも収まらないレベルにまで昇華されている。

 何よりも民話、歌舞伎、浄瑠璃、落語、民謡といった話としての素材と、花柳界、芸事、茶道などの極めて日本的な道具立てが女を描くために敷衍されていくさまに感嘆する一方、こうした教養基盤を年寄りの繰言でなく、それで作品世界をドライブさせてくれる小説家は殆どいなくなってしまったとも思う。というか、その教養基盤自体失われてしまったのかもしれない。

 正直言ってその喪失自体は全面的に悪だとは言えないとも思うのだが、確かに大きなものが既に失われてしまったのは確かだ。


 本書に収録された女シリーズの諸作の中では、「流れる女」が最も好きなのだが、上に書いた素材が女を頂点にするために敷衍されていく過程を十二分に堪能させてくれるからだろう。この作品は、L・ピランデルロの戯曲を下敷きにしたものであるが、残念ながらピランデルロの戯曲は読んだことがない。果たして小松左京はその戯曲をどの面で活用したのだろうか興味がある。一体どういうストーリーなのだろう。


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初出公開: 2001年02月05日、 最終更新日: 2001年02月09日
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