山形浩生にとって、二冊目の単独著書。
タイトルになっている「山形道場」というのは、今は亡き WIRED での連載のタイトルで(実はそれ以前にも使われていたらしいのだが)、この連載自体僕はそれほど評価してなかったので、タイトルを聞いた時点でちょっと不安だったのだが、(著者などの訳による)レッシグの「コード」を読めば本書を読む必要はないとか、本書は失敗作なので自分でも恐くてしばらく読む気になれないといった、呆れるくらい正直な発言を目にし、「それなら本にするなよ」と思ったものだ。
そういう気分で本書におけるほぼ唯一の書き下ろしであるまえがき「要するに」を読み出し、『郵便なんとか』『サイファなんとか』といった書き方にヘキエキしてしまった。こうしたやり口は、それらの著者に対して失礼だとかいう前に、単純に書き方としてくだらないし、バカだと思う。全体としても、既にウェブ上で著者の文章に読み慣れている人には買う価値はない本である…………と僕は一度書き、ウェブにのっけかけたのだが、その後何度か読み直すうちに大分評価が変わってきた。
この「要するに」であるが、はじめはさきほども書いた著者の書き口や、次々と引き合いに出される宮崎哲弥、東浩紀、斎藤美奈子、宮台真司といった同時代人の列挙の仕方が粗雑な思いつきに感じられ苛々したのだが、これは僕の理解が浅はかだったようだ。
「いろいろな領域にまたがること」「中間のレベルを考えること」を読むと、著者が目指していることは明瞭に理解でき、その議論にも非常に説得力がある。「いろいろな領域にまたがること」に関して東浩紀が引き合いに出されるのは、少しもおかしなことではなかった。
「中間のレベルを考えること」に関しても、やはり「論理構造がなんとなく図形的に見える」著者の強みを感じる。僕はこれができなくて苦労しているのだな、と得心がいった。原理直結型の主張というのも、眼のつけどころがうまいと面白いものができてしまうのでついつい乱暴に利用したり、底辺レベルを地道に並べて何か書いたつもりになっても、実は何も結論が出ていなかったりして失敗するのも、中間レベルで確定させる意志がなかったからなのだなぁ。
本文のはじめのところで「山形道場」の連載をあまり評価してなかったことを書いたが、本書に収録された著者の連載についての評価は、
WIREDでの「山形道場」 < サイゾーでの「山形道場」 < HotWiredでの「ケイザイ2.0」
の順で、基本的には長いほど評価が高いことになる。これは僕が著者の文章が好きなので、分量があるだけ良いということなのだと思うが、WIRED での「山形道場」には、文章が短くて食い足りないという不満とともに、内容が散発的な印象があり、それらの結論にもあまり強いものを感じなかった。
各々への評価という点では今もさほど変化はないが、確かにまえがきで著者が書くように、フリーソフトウェアの経済学、ファイナンス関係あたりへのつながりなど、こうして単行本になってまとめられたつながりも確かにあるわけで、そうしたところに本書の価値もあるのだろう。
そうした意味で、本書刊行に合わせて行われた著者の講演会は、行った人の感想を読むと、その接続性が更に突っ込んで広く(バロウズ関係まで含めて)語られていたようで、行っておけばよかったなあ、と今更ながら後悔している。
いずれにしろ著者自身が認める通り、本書に何らかの「結論」があるわけではないし、いろいろな領域がまたがったはいいが、着地点を見出せてないところもあり、散漫な印象はぬぐえない。
これは著者へのメールでも書いたことなのだが、e-candy における連載や Z-kan における連載など、著者がファイナンス関係に特化しようとすると(前者はミクロなお金の運用の話、後者は企業の仕組み関係から読み解くお金の話)、掲載紙の都合でその連載が途絶してしまうという残念な状況がある。こうした連載がある程度のまとまりになって本書に収録されていたら、とは思う。今年には以前から予告されていた「血も涙もないファイナンス講座」が出るらしいから、そこらへんの不満は解消されるとは思うのだけど(同じことを、著者の前著の書評でも書いた記憶があるのがアレなのだが…)。
あと一つ書いておきたいのは、「いろいろな領域にまたがること」と関連して、本書には著者が嫌う部分での NPO、NGO 関係とハッカーコミュニティとのつながりに代表される、著者が歓迎しない形での結びつきも暗示されているのは興味深い。ここらへんが今後の著者の執筆活動にどういう影響を与えるのだろうか。
はじめ本書について「くだらない」と思った部分に関しては、今もその評価に基本的に変わりはない。しかし、彼の文章をちゃんと読んでみたいという人にはお勧めできる本であるし、僕のようにずっとフォローしてきた人間でも、「まえがき」の約35ページは、じっくり読む価値がある。さすがにその場合は買うべき、とまではいかず立ち読みでも十分である。しかし、考えてみればそういう人はとっくにそうしているだろう。
ここでの話とはちょっと違うのだが、著者が啓蒙すべき層と、実際に啓蒙している層に少し乖離があるのではないかと以前から思っていて、それを思い出したのでここに書いておくが、それについての突っ込んだ話は、とてもじゃないが僕の手におえるものではないのでこれで終わりにする。