山形浩生氏の初(!)の著作集。プロローグ、第一章「人間・情報・メディアを考える」における「情報処理で世界は変わるか?」、そしてあとがきが書き下ろしで、それ以外は(あとがきも含め)著者の Web サイトで読むことが可能である。しかし、著者自身があとがきで書く通り、ダウンロードにかかるコストや紙媒体の侮れない強みを考えれば買うべき価値を持った本である。やはり縦書きは読みやすい。
僕は本書を一読し、二点不満を持った。
まず第一点は、プロローグである「心ときめくミームを求めて」が、全体的に本書に収録された他の文章ほどのエレガントさを獲得できてないこと。エレガントさというのはお上品、ということではなく(そんなもん山形浩生の文章には求めない)、数学・物理などの方程式の解答がすっきりいったときのたとえでのエレガントさ、という意味だ。これが実に惜しい。
本書のタイトルは著者でなく晶文社の編集者がつけたものである。著者が希望していたのは「ぬるぬる」で、これも何とも形容し難いタイトルであるが、「新教養主義宣言」というのは幾らなんでも生硬で遊び心が足らない、と著者同様思ったものである。
しかし、「心ときめくミームを求めて」を読むと、やはり本書は教養主義宣言だと納得してしまう。少なくともまともな感性を持った編集者ならそう判断する attitude を持った本だろう。非常に危険な野心を有し、なおかつ寿命の長い書物を目指している。
実際「心ときめくミームを求めて」は勢いのある文章で、通常営業時を越える倣岸さと罵詈雑言でもって読者を振り回すだけ振り回す展開はすさまじく、山形浩生の文章を読み慣れている当方ですら目がまわりそうになったくらいだ。
それならば尚更「心ときめくミームを求めて」に散見される、文章の核をぼやけさせる方向にしか働いていない無駄が腹立たしい。文章としての技は要所で決まれども、冗長なだけの話し言葉の合いの手がその魅力を損なってしまっている。
これは氏が翻訳した「ラスベガス★71」のあとがきを Web で読んだときも感じた冗漫さなのだが、最近の山形浩生は、多忙性饒舌症に陥いるときがあるように思える。
藤原紀香やネスカフェ・ゴールドブレンドがどうこうと書いた後に、いやこれは1999年に・・・といった非常に回りくどい書き方が出てくるのが象徴的なのだが、これなんか初めから普遍的なネタを選んで書けば済む話ではないか。本書が何年にも渡って読まれることを目指していることが伝わってくるだけに、その導入部に彼の文章を初めて読む人間でも引き込むだけの、かっちりとしたまとまりを持っていてほしかった。
二点目の不満は、300ページ近くにもなる本でありながら、内容的に山形浩生の仕事を網羅したものになっていないこと。これは著者の責任ではなく、早い話読者としての当方の勝手なないものねだりなのだが。
ディック「死の迷路」の訳者あとがきが収録されているが、それなら同じくディックの「暗闇のスキャナー」のあとがきだってほしい。バロウズの追悼文にしても、その締めくくりにあたる山形道場での「最語」も収録してほしかったなあ。第二章「ネットワークと経済を考える」にしても、ファイナンス関係の正攻法の文章が一本でも入るだけで、需要回復のために消費税を上げよう、といった正論(だろ?)が正論として通りが良くなるように思うし。あと本書に収録された文章の中心をなすのが雑誌 CUT での連載書評で、これは当方が山形浩生の文章を初めて読んだ場であり、現在まで遠巻きにフォローしてきた連載でもあるので嬉しいのだけど、初期のワインバーグ「コンサルタントの秘密」や高野豊「root から / へのメッセージ」書評も読みたかった。本書の章分けでは取りこぼされてしまうのも仕方がないのかもしれないが、第一章に金塚貞文「オナニスト宣言」についてに文章が入ってないのは大失策ではないか・・・という風に書いていくときりがないし、そうして収録するだけしてしまうと、本書は教養主義宣言でなく教養主義大百科(笑)になってしまう。
それに近刊としてバロウズ本やファイナンス関係が控えているみたいだから、上に書いた不満は総合的には解消していくだろうけど。
一冊の書籍としてまとめられた山形浩生の文章を読むと、氏の文章の狂暴なまでの力に改めて目を見張ってしまう。第四章で冷静平明愉快に語られる反民主主義論などその最たるものである。呉智英に影響を受けながらも、封建主義というタームにどうしても馴染めなかったところに著者の文章を読んで受けた衝撃を今更ながら思い出してしまった。
そういう意味で、「心ときめくミームを求めて」で宣言される本書のたくらみも輝かしいばかりに邪悪(笑)だ。サミュエル・ディレーニ流の「知的な階級差別体制」を日本でもやってみよう、というのだもの。基本的なラインでは賛成であるが、教養・啓蒙でなく学校教育レベルでの具体的なシステムがもう少し見えないと判断が下せない、と僕は一旦逃げておく。あと選別(うわぉう)のためのプロトコルは確立可能なのか、というところも疑問としてあるし。
しかし、本書は危険思想のデマゴーク本ではないし、ましてや教養の名を借りたお説教本なんかでもない。
いつだって、伝えるべきなのは、その教養そのものじゃない。その教養の持つ力であり、おもしろさだ。(「心ときめくミームを求めて」)
そうなんだ。おもしろさ、心のときめき、夢・・・表現の仕方は幾つかあるだろうが、何より我々を突き動かす興奮なんだよ。胸のあたりがむずむずし、どうしても駆け出してしまいそうになるあの感触、急に目の前の見通しがよくなって青空が広がるような開放感なんだ。そしてそれをセックスなんかよりも、お金儲けよりも前に持ってきて論を進められる人間が今の日本にどれだけいるのだろう。
ここに至って、山形浩生が「よく分からない」と途方に暮れているような文章を読んで意外にも感じた面白さに得心がいったように思う。当然だが、普段態度のでかい彼が困っているのを見るのが楽しい、というのではない。
著者が行き止まった命題は、例えば「科学を支える好奇心とは一体何なのだろう」であったり、「小説・映画から感じるおもしろさとはいったいなんなんだろう。それを他人に伝えるにはどうしたらいいだろう」であったり、「蓮實重彦の文章が伝えようとすること、そしてそのスタイルの必然性」であったり、とそれぞれに種別の異なることなのだが、お説教やできあいの結論を超える、知的好奇心から得られる面白さの意味を伝えることへの腐心が共通して貫いたのだ。行き止まってはいたが、閉塞はしてなかった。だからこそ僕はそうした文章を読んで不思議な爽快感を得たのだろう。
ヘンな喩えになってしまうけど、Tricky の "She Makes Me Wanna Die"、Nine Inch Nails の "Hurt" といった「沈黙」がアルバム全体の犯罪性を浮き彫りにする本質性を持っているのに似ているのかも。
僕が本書に持った不満を初めに二点書いたが、後者の方は平たく言えば、今ごろになって山形浩生の単独著書が初めて出版されるなんて遅いんだよ、という苛立ちに行き着くだろう。それは本書を何度読んでも思うことであるが、しかし上に書いたような行き止まりなくしては(しかも、そうした文章はここ一二年に書かれたものが多い)、彼の著書は同じものを目指してはなかったかもしれない。内容的な面白さはともかく、少なくともここまで野心的な本にはならなかっただろう。それが成功しているかどうかはまた別の問題だけど。
そうはいっても、最後に持ってこられた、平坦な戦場で生き延びるための「愛」としか呼びようのない水準の何か(岡崎京子『リバーズ・エッジ』評)、個人として他の個人を愛するというニヒリズムと孤独を逃れるための「もう一つの道」(山岸凉子『日出処の天子』評)についての文章となると、僕はもう言葉が出てこない。
余談であるが、僕の女友達が通う女子大の一部で、山岸凉子の『日出処の天子』が今流行っているそうだが、壁には山形浩生の書評が貼られてあるという。
本当に素敵なことだと思う。それ以上に付け加えることはない。
あと「夜露死苦」はもうそろそろ止めた方がいいのではないだろうか。大きなお世話だが。