この本を読んでいる間、かなり精神的に参っていた。おまけにこの作品が何ともツライ作品なので、読まない方が精神衛生上よいとは思ったが、どうしても止められなかった。
この作品が描く現実は実に残酷である。麻薬による(被害)妄想、幻覚、意識の混濁などによる現実生活の崩壊が小説的な意味でしっかりと描かれているが、それすらも作品世界に浮揚感を与えることなく、ご都合主義でない酷薄な現実感(現実観)に貫徹されている。本当に(反ドラッグ/親ドラッグなんかとは関係なく)恐ろしく、悲しく、そして奇妙な懐かしさを持った小説だ。
山形浩生氏による翻訳は、ヤク中どもの車の部品やスプレー缶の中身にこだわったグダグダした会話をしっかりと訳しきっている(但し、「ナオン」ってのはいかがしたものか)。また氏による解説文も秀逸で、ディック論としても一読に値する。但し、秀逸過ぎて、個人的にはディックの他の作品を読みたいという気持ちがなくなってしまった。鋭すぎるというのも考えものである。現在の山形さんならもう少し老獪なことを書くかも。
前半部は登場人物が入り組み過ぎ、ただゴテゴテしているようで、これはただの駄作ではないかと不安になった。作中の言葉を借りるなら、「今夜はどうかしてるぞ、マーロウ」という感じ。
しかし、中盤マーロウがラガーディ医師を訪ねるあたりから、チャンドラーのストーリーテリングに引き込まれてしまう。ギャング、怪しげな医者、マーロウに苛立つ警官達、といった登場人物は毎度お馴染みなのだが、それに引き込まれるこっちの負け、ということか。
ただ本作は、ハリウッドの生態が重要な要素になっているという点が、以前のチャンドラーの作品と異なる。実際、チャンドラーが「湖中の女」から「かわいい女」まで六年のインターバルが開いたのは、主にハリウッドで脚本の仕事をしていたせいである。チャンドラーのハリウッド観は類型の域を出ているとは思えないが、これをマーロウに語らせると、独特の格調が加わる。
謎解きは、登場人物が入り組んでいる分お手並みの鮮やかさを見られて満足。ただ、ラガーディ医師の姿を認めながら見過ごしてしまうラストには納得がいかない。チャンドラーはどうしても女を殺したかったのだろう。
あとは「湖中の女」あたりを読み、ゲーム版「かわいい女」をプレーして、とりあえずチャンドラーについては一段落させよう。
14人の様々な職種の男女が未開の惑星に送り込まれるが、外部との通信が遮断され、疑心暗鬼のうちにメンバーが殺されていく、という如何にもSFらしい設定で、結末も古典的な部類に入るのだろうが、この作品を特徴づけているのはそうした枠組よりも、登場人物の方である。彼らがそれぞれ異なる魅力を有している、というのではない。むしろ逆で、こいつら揃いも揃って皆無能なのだ。そこで間抜け面下げてじたばたする内に必然的に死人が増えていく。
近頃自分の無能さばかり痛感する当方としては、訳者が解説で指摘する「落伍者であるがゆえにエライ」などという間違った優越感など持つ余裕がある筈もなく、この本を読んでも素直に情けなくなるばかりであった。
実際この作品にしても、二段構えのオチから抜け出てみても文字どおり出口なしなわけで、この苦さがあればそれはそれでよいのではないか、とも思える。作品を貫徹する酷薄さがあるわけでもないし、本書に登場する神学もお手軽そのものだったりするが。
rockin' on で四半世紀以上(!)に渡り金看板ライターである松村雄策の著作集。彼の本は殆ど持っている。本書も上梓時に買おうと思いながら、何故か五年間買いそびれていた。80年代後半から90年代前半に書かれた文章をまとめたものであるが、これは当方がロッキング・オンを毎月購読しだした時期と一致する。あれから十年経つとは・・・。当時の僕は今よりもロック(屁)理屈派だったので、松村さんの文章は余りにも素直すぎるように思えたものであるが、それが単に彼がナイーブだからなのではなく、深い闇を経て到達した境地であるに気付くのに時間はそうはかからなかった。
何より彼のリーダビリティのある文章が大好きなのだ。山口瞳の被害妄想と内田百〓(門がまえに月)のヒネクレ、と書くと誉め言葉になってないようだが、パラノイアとメランコリア、そして氏がビートルズとプロレスと並んで心酔する落語の素養が微妙に絡まって、読み手にとって何とも心地よい文章になる。本書にもそうした文章が沢山あるが、欲を言えばもう少し長尺の文章を読みたかった。これは書き手の体力的な問題があったのかもしれない。
本書は、以前の著作集と比べ、rockin' on 誌に掲載された文章の比率が最も低い。これには色々意味があるのだろうが、氏がロック離れを起こしつつあった時期と重なったことが大きいだろう。でも、「もう、ロックについての原稿など書きたくない」とまで思っていたとは。この傾向は本書に収録された以降の文章に更に強まっていった。しかし、最近ではバーナード・バトラーのディスクレビューで「頼むから、一度ギターを叩き壊してくれ!」なんて書いていて、松村さんの中で新しいロックの季節を迎えているようにも思える。僕としてはそうであってほしいと願っているのだが。
本書の中で僕にとって最も興味深かったのは、「ロック・ファンのバイブル」で、松村さんにとって長年の盟友である渋谷陽一を、珍しく正面から取り上げていて、これが美しい。
あと気付いたので最後に書いておくが、本書にはバッドフィンガーについての文章が収録されてない! 昔書いた文章でも、自分の文体が微妙に変わればそれに併せて単行本収録の際に書き直すほどこだわり(というか楽になれない性格)を持った人だ。これにはきっと何か意味があるに違いない。単なる深読みかもしれないけどね。
ようやくピンチョンに辿り着いた。いきなり大部の長編を単行本で購入して挫折するのも恐かったので、手始めにちくま文庫に収録されている短編集を読んでみた。
収録された五つの短編はいずれも初期のもので著者の評価も厳しいものが多いが、後に「V.」の一部として書き直されることになる「秘密裡に」以外はいずれも楽しく読むことができた。文章に密着して読むことを強いる作品が多く、一通り読んでみてもまた読み直すことで前には気付かなかった作者の意図に気付いて唸らされたり、と集中力を要する。情緒的な部分に関係なく何度も読み直したくなるような作品ばかりだ。
ただこの本で最も優れているのは作者自身による序文であって、率直、かつ愉快な語り口で、しかも鋭く自身の文学の本質に切り込んだ優れた解説文である。作家としての「耳の悪さ」の話など、普遍的な問題だしね。
いずれにしろ僕が勝手にイメージしていた「謎の作家」的イメージは序文のざっくばらんさにふっとばされた感じだ。「少量の雨」「エントロピー」といった作品に厳しい表現を使いながら、(批評家が低い評価しか与えない)「秘密のインテグレーション」のような作品への好意を隠さないのも何となく分かる気がする。
随分前、一年半以上前になると思うがどういうわけか久留米の本屋でこの本を買ってからほったらかしのままだった。「つんどく」になっている本はこれだけでなく、その中から安岡章太郎を積極的に選ぶ気にもなれなかったのは確かだ。
野間文芸賞・芸術選奨文部大臣賞を受賞した表題作に加え、著者初期の短編が六編収められている。短編の方は著者の俗っぽい作品世界がうまく超現実的な展開に噛み合った「秘密」が最も楽しめたが、これは著者の作品としては傍流にあたるものだろう。その他の私小説はそれなりなののだが、どうもそうしたところに警戒感(ヘンな表現だが)を持ってしまうのだ。
さて平野謙が「市民意識の成熟」と評価する「海辺の光景」だが、僕は余り成熟とは思わないし、はっきりいって私小説としては見事なまでに古びてしまっていると思う。しかし、この作品で描かれる死に行く母親を見つめる息子と父親、という構図には色々と思うところがある。卑近な話になってしまうが、当方はどうしても祖母のことを思い出してしまったし、いずれそう遠くない内に僕も両親を目の前で亡くしていくのだな、という変えようのない事実を認識した上で読むと、市民意識というところも侮れない気がする。
色川武大への影響といったところも含め、作品として普遍性を獲得していることは否定できない。
あと全くの余談であるが、「宿題」を読みはじめた途端、これは以前国語の教科書かテスト問題か何かで読んだ作品では、と思い読んでみると実際その通りだった。面白いのは、実際に収録された部分でなくてもそれに思い当たることで、またその予感が僕の場合大抵当たることだ。
古典的な教養小説(Bildungsroman)なんかではなく、悟ったと思った認識が簡単に覆され、思いも寄らないところで真実を見つけてしまうという意味において、本当に瑞々しい青春小説。
この小説でもオースター流のエレガントさを見出すことはできるが、もっとアメリカ人的な闊達さが前に出ていて、それが本書では有効に働いている。後半いささか「話がうますぎる」感もあるが、輝きを放つ(確かに彼は滑稽だし、オースター唯一のコメディの主人公でもある。しかし、彼は紛れもなく輝きを放っている)主人公の周りに隣り合う不吉さ(若さ故の?)も感じることができるので、読んでいて気持ちが冷めることはない。
ただヒロインであるキティ・ウーについて記述が足らないのでは、と思う。もっともっと主人公と彼女の関係性について書いてほしかった。それが本作への唯一の不満点である。
本を入れた箱を「虚構の家具」に仕立てる描写、少年時代の主人公が伯父と交わす空想の世界の話、エフィングという超人的な老人の造形・・・いずれも極めてオースター的であり、彼の作家としての原点を垣間見ることができるようにも思える。
あと題名に始まり、冒頭から最後の場面まで、何度も形を変え登場する月のイメージ。そこからも様々な隠喩を読み取ることだってできるだろう。しかし、別にしかめっ面して考えなくても、素直に心地よくそのイメージを「感じる」ことができる。
そして、その感触は本書の読後感と同じ心地よさなのだ。
筒井康隆を初めて読んだのは大学に入ってからなのだが、すぐに彼の作品に魅了された。筒井康隆にとっての「ビートルズ現象」(分かる?)を経た後の世代であるというのもあるのだが、当時はハッカーコミュニティとも非常に馴染みの深いSFに全く興味がなかったので(これは何故だろう、とたまに思うのだが、考えてみれば当時はハッカーコミュニティ自体に興味がなかったんだ! 情報工学科にいたくせに)、僕にとっての筒井康隆はドタバタよりも純文学寄りの印象が強いのだが、それはどうでもよろしい。日本における現役の小説家という括りで言えば、今となっては村上龍と並んで僕の中で大きな位置を占める小説家である。
そのくせ彼の代表作である本作は今回が初読だったのだが、この作品をまず第一に特徴づける「話が進むうちに言葉が消えていく」ということを、思い付く人間はこれまでおれども、本当にそれをやってのける人間なんてやはり彼以外には考えられず、そういう意味でこれは非常に筒井康隆らしい小説と言えるだろう。ニホンジンでよかったよ。
本作を読む前に、件の設定については知ってはいたのでそれなりに先入観を持って作品に望んだのだが、確か予想の範囲内のユーモアもあったが言葉が消えると同時にその音を含む単語も消すとは思ってなかった。その過程で語り手が現実と虚構についてくだりは圧巻で、これについてテクニカルに批評を加えきれるほど僕は頭がよくないのが悔しいのだが、Kawai さんの映画「Man on the Moon」評などを読むと優れた表現者はやはりこの両者の関係性と格闘してきたのだな、と思う。
しかし、本作は後半にはポルノにもなり、文学論の講演にもなり、そして自伝にもなるという風に、他の作品ではまず起こり得ない展開を辿り、「筒井康隆らしい作品」というレッテルすらひっくり返される。そうした意識的な展開を辿るうちに、本作の初めに感じた予防線と作為の強さを逆に感じなくなるのも不思議な体験だった。
だが本作を読み終え、文庫本を閉じた後思うのは、言葉を十全に使った筒井康隆の作品を読みたいということで、やはり束縛は束縛なのだ。仕方ないとはいえ、それは間違いない。
現実と虚構、言葉という武器、壁と誰よりも自覚的に格闘してきた筒井康隆という作家が一度断筆しなければならなかったというのは本当に皮肉としか言いようがないのだが(彼のファンならこの作品のことが頭をよぎったに違いない)、ある意味そういう人程災厄を引き込んでしまう、ということなのだろう。