村上龍「村上龍映画小説集」(講談社文庫)


表紙

 「映画小説集」となっている通り、タイトルに全て映画のタイトルが掲げられていた短編集である。が、それよりも作者の「69」の高校時代と「限りなく透明に近いブルー」の福生時代の間の時期を主に扱った連作、といった方が分かり易いだろう。「限りなく・・・」に登場するキャラクターも登場する。個人的にはレイコが「限りなく・・・」を読んで勝手にイメージしていたのと違った外見なのに少し驚いたが、それはこの本を読む上では飽くまで瑣末な要素に過ぎない。

 考えてみると、僕は村上龍の短編集を「トパーズ」しか読んだことがない。思えば彼は余り器用な書き手ではない。本書と似たタイトルの「料理小説集」は駄作だという評判を聞いていて未読であるし。但し、本書は傑作である。


 表現は悪いが、映画は飽くまでエサなのだろう。映画の扱い方も様々で、ただその映画を観た、というだけのものがある一方で、「ロング・グッドバイ」のように主人公が感じた感覚が映画の印象に見事にリンクしているものもある。村上龍の本格的な映画論を本書に期待してはいけない。

 それよりもこの短編集の中で統一されているのは、押し寄せる「無力感」の中で生き延びようとする主人公の実存である。無力感、これは現在の日本を語るキーワードでもある。しかし、この連作の主人公の状況と我々のそれとは全く異なる。つまりは我々が抱える無力感にしても別にそれ自体が特別なのではない、ということなのだ。

 突拍子もない例えだが、坂口安吾が「虚無は人間性の付属品だ」(不良少年とキリスト)と書いたように、無力感による圧迫はシステムの普遍的な付属品なのではないだろうか。


 自殺するのは卑怯で安易だ、生きる方がずっと大変なのだ、なーんてしたり顔で言う奴がいる。それは嘘だ。死ぬにはそれなりの覚悟がいるし、ハードルもある。当方にしてもそのハードルが結構高く感じられるせいで生きている部分はある。でもそれでは駄目なのだ。

 生きることを選ぶことで一件落着ではない。人間がただ生きているだけで素晴らしいなんてとんでもない。主体的に生き延びていかなくては意味がない。誰かの歌詞ではないが、「全てに感動を失っても生は続く」のだ。村上龍が小説を通して伝える情報には、常にサバイブするための勇気が含まれている。村上龍本人は、『「書かなきゃいけない」といったことがらは別にないんです。』と書いている。そうかもしれない。その彼の作品が根源的な力を誇るのは、個別化の原理を貫くための論理を常に伝えてくれるからだ。


 そういう意味で村上龍の素晴らしさを再確認できる本ではある。しかし、題材とその文体のみを考えれば、彼のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」は一体何だったのだろう、という気にもなる。あの静謐で超絶的な詩は間違いなく未だに現代文学の最高峰であるし、村上龍の原点でもある。

 70年代に書かれた「限りなく・・・」と90年代に書かれた「映画小説集」、地続きの時期を扱いながらこうも文体の違う二つの作品を読むと、どうも混乱してしまうところがあるのも確かだ。僕自身が日本的な私小説の考え方に捕らわれているのかもしれない。当然両者とも古典的な私小説ではないのだが。


 あと解説文にも触れておいておくべきだろう。村上龍の準公式ウェブサイトと言っていい龍声感冒(閉鎖)に寄せられた感想文が転載されているのだが、韜晦かました文章は一つもなく、いずれも作品と本人の関係性・距離がしっかり踏まえられたものばかりだ。一つぐらいレトリックまみれの似非ニューアカもどきの文章があっても面白かったかな、とも思うが、本編よりも幾らか気負っていて温度も高いこの感想文が彼のファンの(気)質を伝えていることは確かだ。


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初出公開: 1999年10月03日、 最終更新日: 2002年07月13日
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