既に斎藤美奈子の文章はいろんなところで楽しく読ませてもらっていたのだが(最近はホントいろいろなところで書いているしね)、彼女の本を買ったのはこれがはじめてだった。本書については好意的な感想をいくつも読んで期待して読んでみたのだが、それに値する本だった。
確か永江朗が「批評の事情」の中で、「妊娠小説」を楽しく読み、その後「紅一点論」を読んだところで斎藤美奈子がフェミニズムの論客であることに気付いた、というようなことを書いていたと思うが(すまん、立ち読みしただけなので間違っているかもしれない)、もう彼女の文章に親しんでいる当方には「気付く」までもなくその前提があるわけで、それを踏まえた上で、フェミニストでない当方からしても納得のいく評論であった。
でもねえ、この本を誉めるにしても、ただ「面白かった」とか、「分かりやすく一刀両断している」ということで称揚する安易な感想ばかりなのはどうかと思う。近頃では、この「面白い」「分かりやすい」というのを無条件に善とする節がある。難解であるものを難解であるがゆえに持ち上げるアホさ加減と比べれば遥かにマシだが、そうした「簡単に分かった気にさせてくれるもの」至上主義の観点でこの本を誉めるのは間違っている。
確かにこの本は「面白く」、「分かりやすい」。しかし、それは斎藤美奈子の的確な分析と本書の奇を衒ったようでいてその実まっとうに論をすすめる構成にあるのであり、それは彼女の批評家としてのまっとうさによるものであり、単に「毒舌で日本文学を斬った」というような安直なものではない。
森鴎外の「舞姫」と島崎藤村の「新生」をそれぞれ妊娠文学の父、母とするところから始まり、1950年代の「太陽の季節」と「美徳のよろめき」、1980年代のW村上による「風の歌を聴け」と「テニスボーイの憂鬱」の対比など、妊娠小説の分類からして冴えを見せる。個人的に興味深かったのは「太陽の季節」と「美徳のよろめき」の対比であり、実は僕はこの二作品を小説としてほとんど評価していない。前者はどうでもよいとして、「美徳のよろめき」は三島由紀夫の小説の中でもとりわけつまらない作品だと思っている。
初期の「仮面の告白」のようなエポックメイキングな作品であったり、それこそ「金閣寺」級に構築してくれなければ、三島の小説にはつまらないものも多い。以前島田雅彦が「三島は日本文学のセールスマンだった」という発言をしていて、それに納得するところがあって、三島の評価も大分格上げしたのだが、戯曲では「サド侯爵婦人」など素晴らしいものがあるのに、彼の小説の…まあ、ここで三島論をやってもしょうがないのだが。
それはともかく、この本の「美徳のよろめき」評を読み、自分の評価の根本は変わらないものの、妊娠小説としてみた場合のこの作品の面白さにも気付かされた。結局、この小説のヒロインは三度(!)妊娠中絶するわけだが、そのそれぞれ中絶についての分析が欲しいと思っていると、ちゃんと後でそれについての記述があり、抜かりはない。
この本は本当に網羅的で、抜かりがない。そして、その周到さが面白さにつながっている。まじめを装い手順を進める中で、特定の作家のどうしようもなさも見えてくるし、それがまた楽しい。また、その網羅性は妊娠小説における主要なキャラクターの分析にも及ぶわけだが、悪役としての産婦人科医と看護婦に関するところなど思わず笑ってしまう。彼女のくすぐりの利いた文体も、その視点の鋭さだけでなく、本書のような全体性により効果を増している。
というわけでかなり満足させてもらったわけだが、本書で唯一気になったのは、斎藤美奈子が常に語り手として「わたしたち」といっていること。何で単純に「わたし」と書かなかったのかねぇ。別に無理やり複数化しないと安心できないような人じゃあるまいし。それだけが謎だった。