表題作の「蛇を踏む」は芥川賞受賞作で、それなのにというべきか、だからというべきか、川上弘美の短編としてはそれほど評価が高いものではなかったはずだ。記憶があやふやなので間違っているかもしれないが、蓮見重彦などあまり良いことを書いてなかった気がする。
しかし、読んでみるとこれがうまいのだ。楽しめる。変身譚に分類される小説だろうが、川上弘美の場合こうしたものを書いてもまったく無理がない。それは生物、物質、時間を何の違和もなく入り混じらせてしまえる彼女の力量によるところが大きく、例えば笙野頼子のような確固とした方法論、実験志向というよりも、もっとそれを日本的にスマートな形で昇華している。「スマート」というのはこの作品の形容としては適切ではないのだろうが、「蛇を踏む」の流れの良さはそう形容したくなる。
そう考えると、「蛇を踏む」は現実性に寄りかかった作家が気合をいれて書く変身譚ではなく、むしろ通常の変身譚のレベルまで降りてきて書いた作品とすら言える。それに不満を覚える人もいるのかもしれないが、逆に言うとこの作品からはくだらない寓意性は導きようもない。お互いに首を絞め合いながら流されていくという非常に快楽的な(…と書くとワタシの性的嗜好を邪推されてしまうな)ラストなど、むしろ反変身譚という言葉さえ頭に浮かぶくらいだ。
本書に収録されている「消える」「惜夜記」の方が川上弘美のコアな部分を感じることができる。最近ではもう少し俳味のある文体に傾いているようだが、堅苦しい前衛性を印象に強いないのは、彼女の文体の力が大きいのだろう。
しかし、「消える」のような作品設定、「惜夜記」のような不可思議な展開といったものはどうやって思いつくのだろうねぇ。まったく才能のあるなしというのは恐ろしくも厳然としたものなのだな。
当方はこれまで日本における大正、昭和初期の探偵小説を殆ど読んでなかった(江戸川乱歩ですら)。夢野久作は読んだことある…というか、要は「ドグラマグラ」なのであるが。というか、「ドグラマグラ」自体破格の中の破格といえる作品だから別枠で考えなくてはならない。
そんな当方がどうしてこの本を買ったかというと、倉田わたるさんが命令形で勧めていたのを本屋で思い出したからに過ぎないのだが、確かにこれは面白かった。饒舌さを感じさせるところと研ぎ澄まされた文体の対比が良い。彼のような言葉の並べ方には惹かれる。あと関係ないが、「湖畔」では自分の息子を「貴様」と呼んでいて、はじめ大いに戸惑ったのだが(笑)、いつから「貴様」は今のような意味になったのだろう。
本書には10以上の短編が収められているが、特に楽しめたのは「月光と硫酸」のような比較的シンプルな推理もの、「墓地展望亭」「地底獣国」のような冒険譚(と書いていいのかな。いいなあ、こういうの。今はもう書けないもの)、「予言」「虹の橋」のようなその後いろいろな形で応用されている作品、そして前述の研ぎ澄まされた文体と展開に痺れさせられる「ハムレット」であって、有名な「母子像」などは然程でもなかった。
今や日本インターネット史(なんじゃそりゃ)の歴史の一コマとなった「東芝クレーマー事件」について扱った本。これが起きた1999年の夏は、まさに僕も1インターネットユーザとして、毎日会社から何度も Akky 氏のサイトを見て、回りつづけるカウンタに興奮しながら事件の推移を熱心に見守っていた。
「歴史の一コマ」と書いたが、この文章を書いていて気付いたのだが、この事件が起こった当時は、ちょうどあめぞう掲示板を引き継ぐ形で「2ちゃんねる」が立ち上がった時期でもあったはずだ。…と書くのを見れば分かる通り、僕は当時2ちゃんねるはまったく見ておらず、この事件に関してあそこがどういう状態だったかは知らないのだが、そちらから情報を得ていた人は、また違った見方があるだろう。ここらへんにも歴史を感じてしまう。
この本が出ていたことは知っていたが、そこまで追いかけるのに使う金はなかったし、そうこうしているうちにこの事件自体後味悪く終結という形になりそのままになっていたのだが、何故か女友達がこの本を貸してくれたので、今更ながら読んでみた。
事件の推移は一通り知っていたので、新しく知ったことはほとんどないのだが、東芝側のコメントには正直驚いた。本書は、この事件の記憶さめやらぬ時期に刊行されたもので、副社長が Akky 氏に謝罪してからそう時間が経ってなく、世間的には東芝側が屈服した印象があったので、ここまで苦々しい言葉を吐いているとは思ってなかったし、それが面白かった。もう少し日本的に形だけでも頭を下げているかと思っていたのだ。
そのように興味深いところはあったし、ちゃんと公平に取材して書かれた本であるのだが、いくら時間関係、当事者同士の意識のずれを明確にしようと、公平な記録以上の意味は持ち得ていない。
いわゆるウェブにおける「告発サイト」、並びにそれに対する企業の対処のあり方といい、匿名性と個人情報暴露の話といい、この事件が与えた影響というのはとても大きいものであるはずなのだが、それよりも当時の個人的な思い出の方が先に来るんだよな。もちろんそんなことを書いても仕方ない。
ウエルズの作品は子供の頃にも読んだことがあったはずだが、久方ぶりに読んでみた。彼が人気作家であった理由というか、何より当時(半世紀以上前ということですね)の読者がわくわくしながら彼の小説を読んだのだろうなあというのが容易に想像できる短編集だった。
当然中には「ブラウンローの新聞」のようなどうしようもない失敗作もある。未来の新聞を読むという、ある意味ウエルズ的というか、原子爆弾が開発される前から反核運動を始めたという逸話を持つヴィジョナリーとしてのウエルズが最も力を発揮できるはずの作品でありながら、悲しいぐらいしどろもどろになっているのは、ワンアイデアだけでは小説にはならないという良い見本かもしれない。
もちろん全体としては、ちょうど良いぐらいに当時の科学的知見を織り込んだストーリーを堪能できる作品が多く、一種の心理小説でもある「蛾」、自然を題材にした「エピオルニス島」や「アリの帝国」などは特に楽しめた。
しかし、やはり語るべきは表題作で、何度か映画化されているし、これが最も有名なウエルズの小説ということになるだろう(後記:と書いたところ、「宇宙戦争」や「タイムマシン」の立場はどうなるという意見をいただいた。そういえば「タイムマシン」は今年映画化されましたね)。
この作品の背景にダーウィンの進化論、並びにそこから演繹される神と人間の問題があることは有名であるし、そんなもん第一読めば誰でも分かるのだが、むしろ僕が面白いと思ったのは、主人公がロンドンに戻り(そう、戻るのだよ)、そこに住む人達に獣性を見出して(妄想して)恐怖するくだりである。ここにこそ、この作品の現代性があるように思う。
安部公房の文庫本はひっそりと絶版状態になっているものがいくつかあり、中公文庫に収録されているものもかなり怪しいものなので、本屋で見つけると速攻で購入した。ドナルド・キーンとの対談を本にしたものも中公文庫だったと思うが、本当はこちらを早く読みたいのだが。
それはともかくいかにも安部公房的なタイトルである。彼の安易な共同体、儀式、正統性への嫌悪というのは、僕が最も彼に共感するところでもあるわけだが、三編の評論からなる本書は、分量はないもののその安部公房的モチーフを堪能することができる。
ただナチスドイツとアメリカ軍の軍服の対比といういかにもなテーマから始まって、ある種の警告的な文章になるかと思いきやビートルズへの言及で終わるという「ミリタリィ・ルック」は怪作に分類されるものだろう。失礼ながら、僕はこれを読んでいて電車の中で笑い出しそうになってしまった。
ただ本書の内容は意外に古びていないし、特にユダヤ問題から必然的に導き出されるシオニズム批判、国家、民族としての正統性、正義としての農民性の欺瞞について書かれた表題作など特にそうだ。今そのままユダヤ民族論というのはやりにくいものがあると思うが、上に挙げた後半部分の論点など、今現在の日本において特に有効な議論に違いない。
実際の殺人事件に材を取った作品で、そのため他のガルシア=マルケスの作品ほどいわゆるマジック・リアリズムを感じさせず(という書き方はおかしいとは思うが…)、通常のリアリズムに近い内容の小説になっている。
これはガルシア=マルケス入門に最適な作品だと思う。一つには、前述の通り通常の意味でのリアリズムに近づいた形で書かれていること。もう一つには、ガルシア=マルケス自身この作品を広範な読者に受け入れやすくすることを考慮していること、そして何よりも、そうした諸々によりガルシア=マルケスの作品としての魅力が薄れていないことがある。
ガルシア=マルケスの作品に顕著な一種のカーニバル性が、文字通り町を挙げての結婚式という形に凝縮されて描かれているし、「些細な行動、言葉が後に大きな影響を与える」という行列命題を、町を挙げての結婚式の翌朝、最終的には殺されることになる当人を含め、町中の皆が知る中で行われた殺人を通して凝縮した形で表現している。構成も的確で、緊張感が最後まで途切れない。
また、作品の中心になる時間は短いが、ガルシア=マルケス的な雄大な時の流れも、例えば時を経て花嫁の元に戻ってくるバヤルド・サン・ロマンの記述などに感じることができる(このくだりにはしびれた)。
ガルシア=マルケス未体験者は中篇の本作、そして一方マジック・リアリズムのエッセンスを楽しませてくれる短編集「エレンディラ」をまず読んでみるのがよいのではないだろうか。