ウルトラバイオレンス


 オリバー・ストーンの「ナチュラル・ボーン・キラーズ」が公開されたとき、「時計じかけのオレンジ」を凌ぐ暴力映画、という賛辞を送る人がいた。「時計じかけのオレンジ」が公開されたのは1971年であるから、「ナチュラル・ボーン・キラーズ」から辿っても二周り昔の映画になる。暴力を扱った映画など腐るほどあるし、最近ではマスメディアにおける暴力描写の過激化が問題になっているくらいだが、映像作家にとって暴力というのが非常に魅力的な素材であることの現われだろう。その中でも「時計じかけのオレンジ」は群を抜いている。

 但し、群を抜いているのは映画の完成度のことで、時事性、ドキュメント性においては近年より優れた作品がつくられているように思う。

 それでは、何故「時計じかけのオレンジ」が二十年以上経った今なお一つの規範足りうるのか。何か思い切り間抜けなことを書きそうな気がするが、敢えて書くなら、その作品が持つ予言性にあるのではと僕は考えている。


 スタンリー・キューブリックの名作であるが、恐らくは「2001年宇宙の旅」よりも観た人は少ないと思うからストーリーも紹介してしまおう。

 舞台は近未来、主人公のアレックスをリーダーとする仲間達は喧嘩、暴行、略奪、レイプに明け暮れる毎日。そのアレックス君が仲間に裏切られて警察に捕まり、刑務所送りとなる。刑務所から出たいアレックス君は、自分から望んで人格矯正手術を受け出所するが、三度の飯より好きだった暴力とセックスを受け付けない身体になってしまう。そこにかつてアレックスらの被害を受けた人達の復讐と、彼を利用しようとする政党の思惑がからんで・・・という具合だが、話の筋から受けるであろう陰惨さとはほど遠く、アレックス君らの落花狼籍が非常にスタイリッシュに描かれていく。


 上のように書くと、お前は暴力に肯定的なのか、と詰問されそうだが、僕の考えははっきりしていて、暴力は非効率であるから有用な手段ではないが、それだからといって暴力のもつ原始的なパワー、直接性までが否定はされない。暴力の魅力を知ること無しに、その無効性、限界を知ることは、実はできないのだ。

 さて、98年はバタフライナイフ等を使った少年たちの凶悪犯罪がメディアに数多く報道された。いわゆる「キレる子ども達」である。

 彼らが言った言葉かどうかは知らないが、一頃メディアに象徴的に取り上げられた言葉に、「どうして人を殺してはいけないのですか?」がある。

 いかにも夜11時台のニュース番組が狙って仕掛けたような命題であるが、問いかけに対する「大人達」の答えは、凡そ次の三つに大分される。

  1. 自分が殺されるのは嫌だから。自分も他人を殺さない
  2. 殺人を認めたら、社会自体が目茶苦茶になってしまう。だから殺人はいけない
  3. とにかくいけないものはいけない

 3のような土井たか子的思考停止は論外とすると、残るは二つ。2は明らかに社会の安定性の上に個人の幸福を規定している意見である。だが、日本社会のかつての高度成長を支えた戦後民主主義的価値観が崩壊した現実を鑑みれば、陳腐な感じもする。

 となると残るは1。非常に現実的だが、残念なことに如何にも弱気である。他者との究極の関係性に関する動機づけとしては倫理的な背景が見えてこない。

 しかし、である。我々はそれほど論理的な整合性を持って、自らの生を全うしているだろうか。そもそも生きることに論理的な理由などないように、人間社会の規範、道徳に絶対性を持たせることはできないだろう。となると、思考停止と斥けた「とにかくいけないものはいけない」という落とし方も、あながち捨てたものではないのかもしれない。我々の基本的道徳の構成要素を突き詰めてみると、意外にその根拠を述べられないものだ。


 人間を無意識的に統合する社会的規範、西欧においてはそれは未だキリスト教の神の概念であるし、日本においては天皇というスーパーエゴがその役割を果たした時期もあった。

 人間はその個人の力のみで生きているのでないことは確かである。その時代時代における集合意識、言い換えれば物語・神話を人間は求めるのである。戦後日本の教育の目的の一つに、そうした神話の否定があった。戦中の軍国教育にカミカゼ神話が結びついて国威高揚の役割を果たしたという事実、また神話の非科学性からその否定は不可避だった。

 そして敗戦から半世紀余り経ったが、我々日本人は日本社会の基調をなす物語性を獲得できなかった。少なくとも拝金主義以上のものは。現在の小林よしのりのアジテーションは日本社会の物語性の欠落をついていて、それにより多くの読者を得ている。「ゴーマニズム宣言」についてはいつか取り上げてみたいと思っていたが、残念なことに筆者が怠惰こいている間にそれは論考に値しない代物になってしまった。今なお部数を上げているという現状についての興味はあるが、内容には粗方興奮を覚えなくなった。


 話が横道に逸れたが、人間というのはかくも頼りないものなのだ。国家だの時代だの民族だの人間を理屈をつけて枠に収めないと不安になる。神戸の事件に関しても、色んな人間が色んな枠に押し込めようと必死だったが、筆者は事件に快楽殺人の庶民化を見た。旧約聖書に書かれる時代から、猟奇犯罪も理由無き殺人もあった。それを宮台真司のように手際良く解説したところで何の意味があろう。犯罪の当事者や当事者の家族でもない限り、第三者たる我々の態度としては加害者、被害者、殺人の種類の順列組み合わせを静かに認識することしかないだろう。少年犯罪の容疑者の名前を知らなくても、顔写真など見なくても、その静かな認識の中に犯罪に対する想像力を働かすことは可能な筈である。

 要は、大昔は王侯貴族が金と暇に持て余して行った快楽殺人を下々の連中も享受するだけ社会が成熟しただけの話。マスメディアの影響? 馬鹿馬鹿しい。人間が少しでも他への想像力を失えば、その獣性があらわになる。そこに意味など無い。「時計じかけのオレンジ」で描かれる暴力の根底にあるのは社会不安でもマスメディアでも家庭環境でもなく、人間が持つ本質的な嗜虐性の発露なのだ。


 つまりこの映画が優れているのは、そうした獣性という名の人間の本質を見切っているからだ。アレックスの暴力性を安易に幼児期のトラウマだの親子の関係の破綻だのもっともらしい能書きなど垂れないところがすがすがしい。アレックス君は飽くまで彼自身の個別化の原理に従い行動する。

 もはや何の神話も持たない日本社会、近い将来においても日本人は一億総火の玉も総懺悔も出来ないだろう。それなら各々の個別化の原理にまで行動原理を合わせていくしかないのではないか。コミュニケーション不全だのヌルい言い回しで収まる範囲でなしに、本当の関係性の断絶こそが必要なのかもしれない。

 しかし、これは非常に恐ろしいことである。他人と自分を結び付ける社会規範も無に帰すことになるからである。あなたの隣人は実は人を殺すのが楽しくてたまらない人間かもしれない。そしてその隣人の価値基準とあなたのそれが等価であることを認めなければならない。あなたの隣人はアレックス君かもしれない。僕の隣人についても同様である。いや、僕自身がアレックス君かもしれないのだ。どうしてそうでないと断言できるだろう。


 「時計じかけのオレンジ」の後半部を安直な社会批評に堕したと評する人がいるが、僕はそう思わない。映画の結末、ステレオに囲まれ、ベートーベンの第九(この映画ではあの有名過ぎる楽曲が思いも寄らない使われかたをする)が流れる中、貴婦人がたが見守る中二人の男女が破廉恥に交接する姿をイッちゃった目で想像し、「完全に治ったぜ」と呟く瞬間、そこにあるのはアレックス君の個人性の勝利だけである。それは社会道徳とも社会倫理ともかけ離れているし、彼の人生自体が無意味とも言える。だが、ただそれだけの話である。とにかくアレックス君は勝利したのだ。

 以前レンタルビデオ屋でこの映画が青春映画特集コーナーに据えられているのを見たことがあり、その時はおののいたが、確かにこの映画は青春映画といえるのかもしれない。それは、アレックス君を演じたマルコム・マクダウェルにとっての青春という意味だ。


 映画の冒頭、スクリーンからこちらを睨み付ける邪悪な目、親切心で家に入れた作家に「雨にうたえば」を口ずさみながら蹴りを加え、その妻をレイプする映画史上に残る暴力シーン、目を閉じないよう両目に機具を付けられ、目薬をさされ続けながら人体実験にされ叫ぶ顔、昔の仲間に引きずり廻され、泥水に一分以上顔をつけられ殴られ続ける姿など、それらはマルコム・マクダウェルが役者として青春期だったから出来た名演だろう。この映画は彼の名前を一躍高めたが、払った代償も大きかった。それは映画の撮影中彼が実際に肋骨にひびを入れ、角膜に傷が入ったという程度の話ではない。この映画のあと、彼にオファーされる仕事は精神異常者などの役ばかりになったのだから。

 前述の怪我の話も含め、スタンリー・キューブリックは映画撮影に関して全く妥協をしないことで有名な完全主義者である。伝説めいた逸話にはこと欠かない人であるが、彼独特の人間的な情緒性を全く感じさせない映像世界に加え、近未来を想定した凝ったポルノ的オブジェ群と格調高い役者の演技が加わった「時計じかけのオレンジ」、是非皆さんもご覧になってください、なんて宣伝したくなるくらいいい映画なんだよ、これは。


 さてそのキューブリック監督であるが、彼の作品が98年一挙にビデオ化され、88年の「フルメタル・ジャケット」以来の新作も待たれるところである。が、これがトム・クルーズ&ニコール・キッドマン主演なのだ。最初その事実を知ったときは、何が悲しくてハリウッドドル箱夫婦の夫婦善哉を見にゃならんのか、と目の前が真っ暗になったものだ。しかし、共演がハーヴェイ・カイテルとジェニファー・ジェファーソン・リーと野生味のある役者が共演するので期待していたら、カイテルはあっさり降板・・・

 それでも映画史上最長の撮影期間と言われながら98年の春何とかクランクアップしたと聞いたときにはほっとしたものだが、一部撮影のやり直しでリーに代役が立てられたと聞いて再び気分は暗転。99年夏には公開される予定だが、キューブリックが厳しい箝口令を敷いているため、内容について殆ど伝わってこない。しかし、"Hardcore Sexual Oddysey" らしいという噂も耳に入り、彼がそのテーマに取り組むのは「ロリータ」以来であるから、期待も膨らむというものだ。タイトルは"Eyes Wide Shut"である。


 おっと、書き忘れていた。人を殺していけない理由。もし問われたら、筆者は以下のように答える。

「いけないことはない。誰もが誰もを殺し得る。しかし、僕が今のところ殺人をしないのは、現在の自分が生きる環境において、殺人という力学の行使が人間としての想像力の欠如の帰結であると信じるからだ。言語と想像力という僕の数少ない武器を失えば、僕は人間の資格を失う。殺人には言語も想像力も必要ない」


1999年3月8日追記:
 会社でいつものように Web でニュースを見るとキューブリックの訃報が伝えられており、思わず小さく叫んでしまった。享年70歳。映画でしか作り出せない世界を生み出すことに力を注いだ映画人がまた一人この世を去った。"Eyes Wide Shut" は完成済みで公開されそうなので、お別れの言葉はそれを観るまで取っておこう。キューブリック監督、安らかな Odyssey を・・・


[前のコラム] [読観聴 Index] [TOPページ] [次のコラム]


初出公開: 1998年11月、 最終更新日: 2001年06月25日
Copyright © 1999, 2000 yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)