二人のカラス氏の生きるための闘い


 凡そ三年前、近所の本屋で軍司貞則「滅びのチター師」が文庫本になっているのを見て驚き、早速購入したことがあった。と書くと、まるで僕がこの本を以前読んでいたようだが、実はこの時が初読であった。しかし、筆者がまだ小学生のとき、この本がラジオドラマ化され、兄が録音したテープを何度も聞いていたのだ。

 この本の副題は「「第三の男」とアントン・カラス」である。映画好きならピンときた筈で、キャロル・リード監督の映画史上に残る傑作「第三の男」の音楽を担当したアントン・カラスについてのノンフィクション作品なのである。

 「第三の男」を観てない人でも、そのテーマ曲を知らないという人は殆どいるまい。弦楽器による映画の主題曲としては「禁じられた遊び」と双璧を成すだろう。

 本を読み進む内に、十数年前ラジオドラマのテープを聞いたときの興奮が蘇ってきた。圧巻なのは、「ハリー・タイム・テーマ」が産まれた日についての記述である。


 アントン・カラスを音楽監督に抜擢したキャロル・リードはカラスをロンドンの自宅に住まわせ、厚遇を与える。カラスも心血を注いで作曲に励むが、環境の急変などもあり、作業は遅々として進まない。メイン・テーマとなる曲が生み出せず、カラスも苦悩する。そんなある日、リードが英国紳士の礼節をかなぐり捨て、カラスに迫る。仕事場から帰宅したリードはカラスの部屋に駆け込み、床に大の字に倒れ込む。

 「俺は今死んだ! 死んだ人間を蘇らせられるのはお前のチターだけだ! カラス、俺を生き返らせるような曲を弾いてみろ」

 カラスは驚愕し、リードの意図を知る。チターを弾いてみるものの、リードは満足せず床に倒れたままである。数時間弾き続け、もうこれで駄目だと観念した瞬間、あの不滅の数小節がカラスの指から放たれたのだ。


 いやはや、映画というのは大変なものである。件の本だけ読むと、リードはまるでカラスとだけ映画を作っているようにさえ思える。しかし、実際には陰影深いカメラワークを演出し、オーソン・ウェルズの名演を引き出し、後の大作家グレアム・グリーンと脚本について意見を戦わせ(有名な「スイスの五百年にも及ぶ民主主義と平和はハト時計しか生み出さなかった」というウェルズの台詞はグリーンの原作にはない)、リードは一本の映画を作ったのである。当然のことだが、以上のことを全て成し遂げられたから「第三の男」は映画という芸術の頂点の一つたりえているのであるが。

 そして、「第三の男」の成功はカラスの人生も変える。世界中で演奏旅行をし、ローマ法王、英国王室などの上流階級の人間に賞賛され、大金も稼いだ。一介のホイリゲ(オーストリアにおける酒場)芸人から「ミスター・シンデレラ」になったのだ。


 オーストリアに帰ったカラスは自分のホイリゲを持とうとする。しかし、その営業は同業者、政治家を敵に廻した裁判闘争を引き起こす。そして現在オーストリアにおいて、音楽関係の文献を始めとして、チターに関係する人間の口からもアントン・カラスの名前が出ることはない。カラスはオーストリア社会から完全に排斥されたのだ。

 大戦後の物資窮乏の時代に一人大金を稼いだ人間に対する嫉妬があったのは言うまでもない。チターという「滅びの楽器」にまつわる音楽的差別もある。そして「第三の男」がハプスウルグ朝の栄華でなしに敗戦国としての社会の暗部を描いた映画であることは、気位の高いオーストリア人には許し難いことであった。ここまでは部外者である我々日本人にも想像はつく。

 郡司氏はそこでカラスの出自の分析に止めをさす。カラスの家系がチェコ・ハンガリー系であるという事実を突き止めていく過程、実はそれこそが「滅びのチター師」というノンフィクション作品の読みどころなのだ。


 カラスは裏取り引きのような大人の処世術など考えもせず、彼を取り巻く障壁と飽くまで愚直に闘った。音楽家の才能を絞り尽くして創り上げた音楽の舞台、道具、報酬、自身の血、それが全て彼に災難をもたらしたのだから何たる人生の皮肉か。

 自分が属する民族の誇りだの、文化の独自性だの無自覚に言い放てる人間が洋邦問わずいるが、彼らはその「文化」により虐げられる人間がいるという想像力が欠如しているに違いない。

 ウィーンの人間を殆ど全て敵に廻して孤軍奮闘したカラス、海外のつてもあったのに彼は何故ウィーンに留まり続けたのか。「私はウィーンという町が大好きなんだ。(中略)共産圏を除いて全世界をまわったが、やっぱりウィーンが私の暮らしに一番合っている」カラスの答えはたったそれだけだった。前述の馬鹿どもにはこの言葉の持つ哀しみも名前と職業のみから出自を見抜かれてしまう文化、伝統の恐ろしさも分かり得ないのだろう。

 カラスが家族を除いて唯一心を開くことのできた友人は、結局キャロル・リードだけだった。「滅びのチター師」は、そのリードの葬式でカラスが「ハリー・ライム・テーマ」を演奏する描写で幕を閉じる。枯れ葉散る並木道を歩き去るアニタ・ヴァリをじっと見詰めながら何の言葉もかけることのできないジョゼフ・コットンが映し出される「第三の男」のエンディングを思わせる哀切極まりない終末である。自分の才能を引き出し、別の世界に送り出し、終生厚い友情を保ち続けた友人を得られたカラスは幸せであった。しかし、必ず訪れる永遠の別れは、友情が固いほど哀しい。


 さて、以前映画「エクソシスト」を取り上げた文章を書いた。確認の意味もあり、「エクソシスト」のビデオをレンタルして十何年ぶりに再見した。

 率直に言ってひどく驚いた。何故ならそれがひどく「いい映画」だったからだ。

 何言ってんだ、と言われそうだが、リンダ・ブレアの首が180度回転してうひゃー的描写が中心となる映画だと記憶していたのだが、流石はW・フリードキン、ホラーの枠をとっても一流の映画であった。

 勿論のこと恐怖を演出する特殊効果が当時の先端であったし、実際恐ろしい映画なのだが、実は非常に普遍的な主題を扱った作品なのである。その主題とは何か。僕は「子どもにとっての親の喪失という恐怖」であると考える。


 主人公であるリンダ・ブレアは女優である母親を持つ。お手伝いが二人いるのだからそれなりに裕福な家庭である。が、父親は離婚のため不在である。娘の誕生日、母親は当然のことながら父親に来てもらおうとするが、連絡が取れない。激昂する母親、それをドアの向こうから覗き見る娘・・・そして、その夜娘は初めて目に見える形で奇行に及ぶ。深夜パーティ会場に入り込み、絨毯の上に放尿するのだ。

 その後娘の奇行はエスカレートしていく。当然これは悪魔の仕業と考えるのがこの映画の世界においては妥当であるが、実は母親を失う恐怖の暗喩とも解釈可能なのだ。娘は彼女の誕生日パーティが開かれる前、母親に彼女が撮影中の映画の監督との仲を尋ねる。母親は相手にしないが、憑かれた娘はその映画監督の首をへし折り、窓から投げ捨てる。

 また、娘は思春期を迎え、男女を引き付け離さぬもの、即ち性の本質を身を持って理解しつつある不安定な時期である。娘が十字架で自分の下腹部を突き刺し、「ファックしろ!」と叫ぶのは性への恐怖、嫌悪の象徴でもある。


 この映画にはリンダ・ブレアの他にもう一人主人公がいる。ジェイソン・ミラー演じるカラス神父である。彼は単なる神父でなく精神医学を学んだことがあるが、それが人々の救済に十全でないことに苦悩している。そして収入も満足なものでないため、脳水腫にかかった母親を精神病院にしか入れられず、彼女の死に目にも会えない。

 僕の英語力のみで断言することはできないが、このカラスの母親の喋る英語は幾らかドイツ訛りがあるように感じられる(息子を「デミ」を呼ぶ発語に特徴がある)。思えばジェイソン・ミラーも一目見て非アングロサクソンと分かる風貌をしているし、更に彼の背丈はないが肩幅の広いがっしりした体型は「滅びのチター師」で解説されたスラブ民族(もしくはユダヤ系?)の特徴に合致する。

 カラス神父という登場人物のキャスティングにそうした要素がどこまで考慮されたかは不明であるが、アメリカにおいても姓名のみで出自が連想されるというヨーロッパの伝統はある程度有効なのだろう。そこに気づけばこの作品を再見したとき首を傾げた個所にも得心が行く。


 映画監督の死を単なる事故と考えない警部は、以前に起こった教会のイエス像が破損された事件と関係があると考え、精神分析医でもあるカラス神父に協力を求める。しかし、二人の会話はどうも噛み合わない。それは警部が実はカラス神父自身を疑っているようだからで、神父もそれを察してか警部の質問にまともに答えない。すると警部は神父に罰当たりな言葉を投げかける。

「この国に住めなくしてやるぞ」

 この言葉は直後警部自身にに訂正されるが、僕は神父が何故そこまで言われなかればならないのかよく分からなかった。しかし、これを西欧社会における民族意識を当てはめると説明できそうだ。ヨーロッパにおいて被差別民族であった彼らは、移民の国アメリカにおいてもよそ者であり、官憲から疑いをかけられ、「この国に住めなくしてやるぞ」と脅される流浪の人種なのではないか。


 映画のクライマックスは当然悪魔とカラス神父、メリー神父の対決である。メリー神父の言う通り、悪魔は真実を嘘に紛れ込ませて人間を動揺させる。カラス神父はリンダ・ブレアに亡き母親の幻影を見、悪魔は母親の声色でカラスに呼びかける。

 対決の結果としては、まずメリー神父が心臓発作で一命を落とす。カラス神父は激昂し、自分に悪魔を乗り移らせ、窓から飛び降り、その命を絶つ。ただ、ここでの彼の怒りは、悪魔に対するだけのものではない。母親を精神病院に見舞った後、サンドバックを殴る彼の心情と同質であり、それは親(メリー神父は父親の暗喩)の死に対し何も出来なかった自分自身に対する怒りなのだ。

 だがその結果、何がどうしたというのではない。母娘がニューヨークは去り、カラスの同僚の神父がそれを見送る姿が映し出されるだけである。母と娘の関係が以後どうなるかなど分かりはしない。


 我々はただその別れを見つめるだけである。アニタ・ヴァリがウィーンを去り、リンダ・ブレアがニューヨークを去る。そしてそれを見送るジョゼフ・コットンがいて、神父がいる。別れの光景という点において、ウィーンとニューヨークに違いはあるまい。その光景は冷え冷えとして、哀切に満ちている。だからといって何時までも感傷に浸るわけにもいかない。去る者は新天地での、残るものはこれまでどおりの日常に立ち戻らなくてはならない。

 結局のところ、人生というのは闘いであると言う他ない。相手は親であったり恋人であったり自分自身であったりもする。そしてその闘いの途中で幾つもの別れを繰り返さなければならない。もし哀しい別れがもうないとしたら、その人の生は終わったも同然なのだから。


[後記]:
 エクソシストについては、ディレクターズカット版の DVD におけるフリードキン自身による音声解説を聞き、本文における推測がいくつも間違っていることが分かった。カラス神父はギリシャ系だし、警部はカラス神父自身を疑っていたわけではないようだ。


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初出公開: 1998年10月、 最終更新日: 2003年12月07日
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