闇の奥、もしくは大いなる悲劇の終焉


 フランシス・フォード・コッポラの「地獄の黙示録」は間違いなく映画史上に残る作品である。但し、それは作品の質のみによるのではない。確かに彼自身二度目のパルムドール(カンヌ映画祭グランプリ)をこの作品で受賞した。しかし、この作品でコッポラは多大な経済的損失を蒙ったし、作品自体完全性を備えているとは言い難い。そして、コッポラが失ったものが莫大であったために、この作品の価値が押し上げられているフシもあるくらいだ。

 だが、この映画には人を掴んで離さない何かがある。何度観てもその世界に引き戻される何かが。


 テアトル梅田(大阪)に「ハート・オブ・ダークネス」を見に行ったのは何年前だろう。レイトショウだから客層も限られるだろう、と考えて終電に間に合う放映時間ギリギリに出向いた僕は馬鹿だった。通路までぎっしり詰まっていて、勿論僕は最後部で立ち見だが、余りの人込みに気分が悪くなり、一度外に出なければならないほどだった。

 「ハート・オブ・ダークネス」は、手っ取り早く言えば「地獄の黙示録」のメイキングフィルムで、コッポラの妻エレノアがカメラを廻したものである。

 断片的な話は知っていたが、「地獄の黙示録」はつくづくとんでもない映画であるという事実がそこには映し出される。


 冒頭、パルムドールを受賞したコッポラが叫ぶ。

「これはベトナムについての映画ではない。ベトナムそのものだ!」

 実際撮影でジャングルを焼き払ってしまうし、サム・ボトムズは役柄通りドラッグにいかれていくし、マーティン・シーンは頼まれもしないのに素手で鏡を叩き割り、血まみれになるし(カメラを廻しながらも、彼に殺されるかと思った、とエレノアは回想する)、マーロン・ブロンドはコンラッドの原作も読まず、デブったままで撮影現場に現われ、演技を全てアドリブで通そうとするし、極めつけはマーティン・シーンが心臓発作で倒れてしまう。

 いやはや、これだけでもとんでもないが、セットは何度も台風に流され、制作費、撮影期間も超過の一途を辿る。コッポラ自身後に認めているが、女・麻薬に手を出し、妻が結婚生活に関する私記を発表するに及び、私生活も混乱を極める。そして映画のラストがどうしても決まらず、弱音を漏らし、挙げ句の果てには自殺まで口に出す様は凄惨ですらある。

 完成後も映画の結末が満足できず、ローリング・ストーン誌のインタービューで、「あれは嘘のエンディングだ。僕の中には本当の結末がある」と告白せざるをえなかったコッポラ。


 しかし、そうしたコッポラを指して、映画製作者、映像作家、そして芸術家として甘いという人間はいないだろう。もう彼はその時点で、かつてどの芸術家も体験したことのない苦悩を抱えてしまったのだ。 苦悩、と言うよりもナンセンスと言った方が正確かもしれない。莫大な金、人を個人の能力の下で動かし、莫大な興行収入を獲得しなければならない。それはもはや芸術作品が生まれる現場ではなく、巨大ビジネスの最前線に例えた方が適切なくらいである。

 「地獄の黙示録」が制作された70年代後半から80年代前半は、そうした巨大ビジネスを前にして、アメリカンニューシネマの旗の元に名作をものにしてきた、コッポラ、マーティン・スコセッシ、ロバート・アルトマンといった巨匠が苦闘し、挫折した時期でもある。マイケル・チミノが「天国の門」で映画会社を潰してしまったのもこの頃だ。


 「地獄の黙示録」の負債により破産寸前に追い込まれたコッポラの最後の切り札だったのが、言うまでもなく「ゴッドファーザー PARTIII」であった。幾度と無く聞こえてくる破産の噂、キャスティングなどのゴタゴタ、映画会社との対立、そしてそれでもなお衰えることのないコッポラの執念を目の当たりにして、多くの映画ファンが、やはりこの人こそがゴッドファーザーだったのだ、と溜め息をついたに違いない。

 思えばゴッドファーザーシリーズの他にも、シリーズ化された人気映画はあるが、これほどの感情移入を強いた映画は他にはない。


 「PARTIII」公開直後のインタビュー誌に載ったアル・パチーノのインタビューは出色だった。「ゴッドファーザーシリーズは、パワーシンドロームについての映画だ」と冷静に分析するパチーノに対し、インタビュアーが完全にパチーノとコルレオーネを同一視し、彼に迫る。例えば次のようにである。「僕はゴッドファーザー PARTII を40回は見てるんだ。まるでラジオを聞くみたいに」「どうして君はフレドーを殺したんだい?」

 また、インタビュアーはその当時に公開されたマフィア映画の本数の多さについてパチーノに意見を求めると、パチーノは「どうしてそれを僕に聞く?」と反問する。「だって君はマイケル・コルレオーネじゃないか! トニー・モンタナ(映画「スカーフェース」の主人公)じゃないか!」とインタビュアーは叫ぶ。

 これはロッキーやインディ・ジョーンズはおろかスターウォーズでも起こり得ないことである。余談だが上記のインタビュアーはジュリアン・シュナーベルで、「ニュー・ペインティング」の中心人物であるとともに、97年一部で評判になった映画「バスキア」の監督でもある。


 ブランド、パチーノ、ダイアン・キートン、ロバート・デュパル、ロバート・デ・ニーロ・・・書いていくだけで気分が高揚する豪華キャスト(上に挙げた出演者は全てアカデミー主演男(女)優賞受賞経験者)の演技も素晴らしい。しかし、このシリーズが特殊な感情移入を強いるのは、「ゴッドファーザー」サーガが、一貫して悲劇であるという点にあるのではないか。

 考えてみれば、I から III まで通して出演し、かつ死ななかったのは、キートンとタリア・シャイアだけというくらい登場人物が死んでいく。しかし、それは最近の暴力映画における無機質・無意味性に帰着するのではなく、飽くまで人間的な情念、信仰、愛憎に彩られる。


 これはある人が書いていたのだが、マフィア映画の根本にあるもの、それは血と神への信仰であって、暴力や麻薬や殺人はそれらの着地点に過ぎない。つまり血族並びにファミリーに対する忠誠とキリスト教に対する敬虔な服従、それ自体とりたてて特異なものではない。しかし、それなら何故ドラマが生まれるのか。それは、彼らの二つの信仰が何かしらの形で裏切られてしまうから、もしくは、その二つの信仰に対する忠誠が矛盾し、衝突してしまうからである。

 そうしたフリクションこそがマフィア映画の緊張感であり、決定的な破綻こそがマフィア映画の悲劇性を支え、暴力的なまでのカタルシスにつながるのだ。


 コッポラは、「マフィア映画などには興味がない」と唾棄し、「次の映画はアマチュア映画のように短期間で作り上げたい」と言い続けて現在に至っている。しかし、彼は「ゴッドファーザーPARTIII」を作らざるを得なかったし、僕の見るところ、彼の映像資質はアメリカ的(正確に書くと、アメリカンニューシネマ的)なスペクタクル性が最も適しているように思う。

 たとえ「ランブルフィッシュ」などの優れた小品をものにしたとしても、「ドラキュラ」のような大作に取り組まなければならない。そして、大失敗を喫してしまう。本文執筆時点での最新作である「レインメーカー」は未見であるが、作品そのものより取りあえず経済的な破滅を免れているようなのに僕はまず安堵する現状である。同情されるようでは芸術家として駄目ではないか、とも思うし、正直言って、映像作家としてももう終わっているのではないか、と思うときすらある。


 前述の巨匠達にしても、アルトマンの「ザ・プレイヤー」における復活に代表されるように、膨張する映画業界と何とか折り合いをつけ、現場に復帰している。しかし、その業界の矛盾は広がるばかりだ。「タイタニック」の制作費は二億ドルで、チミノが「天国の門」に費やした額の十倍だ。当時から物価が十倍になったわけでも、映画館に足を運ぶ人間の数が十倍になったわけでもない。それでもハリウッドの大作志向にのったジェームス・キャメロンのような三流映画監督がオスカーを獲り、「俺は世界の王様だ!!」と叫んだりする。

 それでも僕は声を大にしていいたいのは、そうした狂ったパワーゲームは、先人達の苦闘の上に成り立っている、ということである。ひょっとしたらコッポラはジャングルの闇の奥に入り込み、個人の才能の限界に挑戦し、才能の一部を失ったのかもしれない。

 それでもコッポラの「ゴッドファーザー」サーガ、そして「地獄の黙示録」は永遠に残るべき映画なのだ。それらが単なる古典になるときがきたとしても、芸術家として一流であることを企業家としての未熟さのエクスキューズにしなかった芸術家の時代的な(極めて現代的な)遺産としての究極たりえるのである。


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初出公開: 1998年09月、 最終更新日: 2000年07月26日
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