世界的なロックバンドには伝記本の類が多数存在する。邦訳されたものもかなりの数となる。伝記本と一口でいっても、当然質的にも形式的にも様々である。ロックの世界における伝記本を分類するなら、大体以下に挙げる種類のいずれかに落ち着くだろう。
1. 暴露本タイプ
やはりロックは現代的でヤクザなモンキービジネスである。むしろ山師的な要素こそがロックの本質の一つで、ロックミュージシャンにはエキセントリックな連中が多いし、そこに色んな人間の欲望が絡み合うのだから、暴露本が作られる素地はバッチリだろう。追放されたメンバーやマネージャーなどのスタッフが私怨晴らし半分で書く場合も多い。
ビートルズの伝記本は多数存在するが、多かれ少なかれ暴露の要素を持つものばかりだ。というか、60年代というクレージーな時代に、ジョン・レノンのような最高にクレージーなロックイコンがいたバンドに、マジック・アレックスのような詐欺師的周辺人物(人工太陽を作ってやる、とか豪語してたんだぜ)、金、女、そしてドラッグが絡むのだから当然だろう。
2. 資料本タイプ
アーティストの詳細なディスコグラフィーを綿密な調査でまとめ上げた本も多い。個人的にはそうした百科事典的な書物はロックの本質とずれているような気もする。
代表的な例として「バックストリーツ」(邦訳は白夜書房)が挙げられる。ブルーススプリングスティーンの同名ファンジンを一冊にまとめたものだが、凄まじい情報量に行間から作成者のアブナイくらいの愛情を感じ、これもロックの魔力の成せる業なのか、と納得させられる。第一ファンジンの名前に「ボーン・トゥ・〜」や「Eストリート〜」なんかでなく、「裏通りに隠れて」というヒロイズムと無縁なサビの曲のタイトルを使うなんてその時点からかなりキテいるし、同時に信用もできる。
3. 概説タイプ
これはバンドの成り立ちから現在までをまとめたありがちなパターン。当然暴露的な要素を持つこともあるが、ミュージシャン、バンドサイドとの関係がキーになる場合が多い。必ずしも良好な関係のもと書かれた本が良質とは限らない。以前ピンク・フロイドの伝記を長時間立ち読みしたことがあるが(買えよ)、デイブ・ギルモア寄りの内容にがっかりしたことがある。商業的でなく芸術的な文脈からすれば、やはりロジャー・ウォータースこそが・・・などと書くだけ虚しい現状がこれまた虚しい。
あとマネージャーから「腕をへし折るぞ」と脅されながら書き上げられたマーク・ノップラーの伝記というのも存在する。僕は書評しか読んでないが、それほど入れ揚げる対象かな、と評者も呆れていたが全くである。ダイアー・ストレーツのアルバムはイギリスの一家に一枚という程売れているが、でもあのスター性のかけらもない禿げオヤジの伝記を読みたい人間なんかいるのだろうか。
4. 自慰タイプ
個人的にこの範疇に入れたい伝記本は二通りあり、一つは向こうさんの音楽評論家のオナニー本。本場だから評論も優れているとは限らない。インタビューを元にしたものでも、聞き手の自己顕示欲が強いために、読んでて苛々する場合が結構ある。一人称が頻出したり、如何に自分がそのミュージシャンとマブダチかを誇示するだけの文章を読まされるファンの身にもなってほしい。スタッフが書いた本にもこれが多く、ジョージ・ハリスンも「5人目のビートルってのが40人ぐらいいるだろ?」とか言ってたっけ。
もう一つは、トンデモ本紙一重タイプ。ロックの世界でも結構これがある。例えばエルビスは生きている、とかマイク・チャップマンはCIAに操られジョン・レノンを殺したとかいった内容の本が立派に翻訳され出版されている。何も世俗的常識で上の主張を斥けはしない(特に後者)。でもだからなんなんだ、と言いたくなるのも事実。エルビスが生きていたとして、今のロックに何の関係があるんだよ。
99年1月号の rockin' on 誌に掲載されたビースティ・ボーイズの特集記事の中で、周辺人物の一人がビースティーズのツアーについて、レッド・ツェッペリンの「Hammer of the Gods」という伝記がツアーガイドだったなあ、と回想するくだりがある。
件の本は邦訳も出ている。邦題は「レッド・ツェッペリン物語」(CBSソニー出版、もう絶版かも)である。先日帰省した折りに実家の本棚を探し久しぶりに読んでみた。買ったのは凡そ十年前で、バンド自体に関する情報が絶対的に不足していためだろう、上記の分類でいけば3の「概説タイプ」として読んでいた。しかし、この本は暴露本として書かれたもののようだ。本の扉の「これまで語られなかった影の部分に焦点を当て、ロック史上に残る怪物バンドの正体を暴いた」という文句を読めばそう納得せざるを得ない。
というか本の結論が「レッド・ツェッペリンはジミー・ペイジの導きにより悪魔に魂を売り渡したためロック史に残る成功を収めた。しかし、その報いとしてジョン・ボーナムは若死にし、ロバート・プラントは愛息を奇病で亡くした。メンバーで唯一難を逃れたのはジョン・ポール・ジョーンズである」てな感じなのだから、暴露本を通り越してトンデモ本といってもいいかもしれない。
しかし、である。そうしたツェッペリンに対する否定的な認識が底流に流れる本であるが、不思議なことに伝記本としては成功している。音楽面への詳細な解説に依るのは勿論である(下手に偏向した思い入れがないだけよい)が、それ以上に大きいのはフィーチャーした発言の所在である。
面白いことに、エルビスを語るのにエルビス自身が最適とは限らない。本人だからこそ分かってないことも多く、ミュージシャンやってるエゴの強い人間はなかなか自分を客観的に観ることが出来ない。デビッド・ボウイも言っている。
自分の考えが変わったのか、それとも最初から嘘をついていたのか、それすらもはっきりしないんです。みんながぼくの言うことをあれこれ真面目にとりあげてるけど、あんなもの大して意味がないのになとぼくは思うんです。
「レッド・ツェッペリン物語」において、メンバー以外でフィーチャーされている人物が二人おり、それはマネージャーのピーター・グラントとツアマネのリチャード・コールである。前者はヤクザまがいの強権的なバンド運営でロック史に名を残す伝説的なマネージャーであるし(数年前に癌で死亡)、後者はバンドのツアーにおけるグルーピーやドラッグがらみのトラブルをつぶさに見てきた(というより率先して体験してきた)男、いずれも二三人殺してるであろう強面のデブである。彼らの発言がこの本の芯となり、レッド・ツェッペリンという70年代最も成功したロックバンドの内実が明らかになる。グルーピーに関する記述も、余り不愉快にはならなかった。寧ろ幾つかのエピソードは、素敵なラブストーリーにすら思える。グルーピーという文化も理解できたし。有名なサメ事件の記述(詳細は書かない方がいいでしょう)はちょっとたまらなかったが。
考えてみればバンドにはそうした客観者が内部にいるものだ。その代表はビートルズにおけるジョージ・マーティン。当然彼はスタジオ内のビートルズしか知らないのだが、その分純粋に音楽的な面のみに視点が絞られる。マーティンの英国紳士としての矜持がそうさせるのだろうが、過剰にビートルズを神格化するわけでもなく、反動として貶めるようなこともせず、冷静かつ率直にビートルズサウンドの成長と瓦解を語ってくれる。この人のインタビューを読むたび、心から感謝し、拝みたくもなる。
僕が知る限り、「耳こそすべて―ビートルズ・サウンドを創った男」(河出書房新社)という名著と、あとアルバム「サージェント・ペパー」に特化した著作(「メイキング・オブ・サージェント・ペパー」(キネマ旬報社))が邦訳されている。
ここまで書いていて気付いたのだが、ロックの領域では余り面白い自伝が存在しない。チャック・ベリー、フランク・ザッパのものは例外かもしれないが、それでも合格点に達しているかは分からない。
ただ最近ではマリリン・マンソンがショッキングな内容の自伝を出したりしている。個人的には彼のイメージ作りのためのマーケティングの一環(内容が嘘だと言いたいわけではない)に思えてシニカルに見てしまうが、そうした意味でも伝記本のあり方も変わりつつあるのかもしれない。
日本の出版社もそこらへんの趨勢を見極めて翻訳権を買ってほしいものだ。詰まらん伝記本はもう沢山である。
最後に「レッド・ツェッペリン物語」で最も笑った記述を書いておく。80年代のツェッペリン解散後の話であるが、ジミー・ペイジとジェフ・ベック(祝! 新譜)がパーティに出席したとき、チャリティーライブに参加してくれるように口説かれるベックを横目で恨めしげに見ていたジミーは吐き捨てた。
「誰も俺には声をかけてくれないんだな。俺が参加したら、まずいことでもあるのかい?」
いいじゃないかジミー。ケチで性格悪くて嫌われ者でも。君の相棒のロバートもケチで性格悪いことを僕はちゃんと分かっているから。例えツェッペリン以後の活動が全て残骸で、君の体形がオバQと化しても、僕はツェッペリンの栄光を忘れないよ。葬式には「天国への階段」を流してもらおう。それにね、例え悪魔に魂を売り渡したっていいじゃない。それに関しては僕とご同類だよ。