実家のステレオがとうとういかれてしまった。数年前よりスピーカー、アンプの順に不調を感じながら騙し騙し使っていたが、とうとうCDプレイヤーがちゃんと回らなくなってしまった。カセットデッキは約十年前に兄に強奪されている。そろそろ廃棄を考えなくてはならない。
このステレオ一式は1988年の末か1989年のはじめ、高校に入学する少し前に購入したものである……と書いて、購入から15年経っていることに改めて感慨を覚えた。各パーツを、アンプは山水、スピーカーはONKYO、カセットデッキはA&D、そしてCDプレイヤーとチューナーはパイオニア、というように単体で買い揃えたもので、相当値が張る買い物であったことはご想像いただけるだろう。実際、定価でそのまま買えたわけはなく、親戚関係のつてで相当に割引してもらった覚えがあるが、そうだとしても中学生には分不相応な買い物であったのは間違いない。親からの搾取に耐えながらこつこつ貯めてきたお年玉をここぞと大部分つぎ込ませてもらった。
この買い物は、ワタシより数年先んじて同じく単体でステレオを組んでいた兄の影響があったのは間違いなく、またそれがあったので親も仕方がないとさして止めなかったのだと思うが、以来ワタシと兄の部屋からそれぞれ爆音が鳴り響くことになった。まったく近所迷惑な兄弟だったわけだが、ワタシも自分のステレオを持ち、CDを買うようになって兄とは違う音楽的嗜好性をみせるようになった。
しかし、捨てるとなるとどでかい粗大ゴミである。とてもじゃないが老いた両親に運ばせるわけにいかないが、ワタシでも運び出せるか、スピーカーのサイズを考えると今から不安を覚える。
ワタシが自分用の環境を整えた1989年には、LPからCDへの移行期もはっきりCD寄りに倒れていた。リアルタイムにルー・リードの『New York』、キュアーの『Disintegration』といった名盤を聴きながら、同時に当時一気に安価に再発された70年代ロックの名盤の数々を追体験することになるのだが、その代表格であるレッド・ツェッペリンで言うと、4枚目はアナログ盤で買ったが、それ以外はCDを購入している。
なぜこんなことを書くかというと、以前より「アルバムという単位の解体」というのを考えてきたのだが、ワタシの場合、「アルバム」というとA面とB面があるアナログ盤LPをまず想起するのである。本格的に自分で音を買うようになったのは紛れもなくCD時代であるが、自分の嗜好性を決定した作品にアナログ時代に作られたものが多いというのがある。
その流れで(以前にも紹介した)U2 のエッジの発言に共感したりするわけだ。
俺はアルバムっていう形式がすごく好きなんだ。今だと前ほどは気にされなくなっているけど、まだアナログ盤しかなかったころは、アルバムの構成にすごくきっちりと決まりがあって、どうしても守らなければならないといけなかった。A面とB面でアルバムを2つに分けて考えて、ちゃんとそれぞれの面に始まりと終わりがあるようにしないといけないっていう、そういうものだね。
(rockin' on 2004年12月号 p.35)
確かに昔のアルバムは、その準拠枠を踏まえた作品が多かった。そしてワタシが本格的に洋楽を聴き出した80年代後半は、前述の通りLPからCDへの移行期であったため、作品フォーマットがちょっとおかしなことになったり、ミュージシャンの意識が垣間見られたりもした。
例えば上に挙げたキュアーの『Disintegration』は収録時間の関係でLP、CD、そしてテープで収録曲に違いが出たし、スティングの『Nothing Like the Sun』がアナログ二枚組というブルジョア仕様になった一方で、それと大体同じ約60分の収録時間だったデフ・レパードの『Hysteria』はLP一枚で押し通したということもあったっけ。
また片方でU2のエッジの発言の裏返しで、74分連続して音を鳴らせることに積極的な意義を見出した人もおり、例えばルー・リードはその効用をインタビューで語っていたし、実際『New York』のブックレットには、"In essentially the order you have here. It's meant to be listened to in one 58 minutes (14 songs!) sitting as though it were a book or a movie." という注意書きがある。またプリンスは『LOVESEXY』を曲をスキップできないような仕様(つまりアルバム丸ごと一曲)にしてCDをリリースしている(もっともこれはコンビニエンスな音楽が蔓延する業界に対するカウンターメッセージだったらしいが)。
一方で、LP前提で作られたアルバムがCD化され、あれれ、となるものもあった。例えば上で挙げたツェッペリンの4枚目だが、LPだったらA面ラストの "Stairway to Heaven(天国への階段)" の余韻に浸っているところに能天気なリズムの "Misty Mountain Hop" が始まり、がくっと来たことも何度か。これに限らずLP時代のディスクのCD化の場合、A面とB面にあたる部分に最低10秒間の無音部を入れてほしい、そしてボーナストラックが追加される場合は、同じくアルバム本編とボーナストラックの間にまた最低10秒間の無音部を入れてほしいとワタシは常々思うのだが、それはまた別の話。
さて、そういうことを考えていたときにちょうど arton さんが「LPがCDになって失われたこと」という文章を書かれており、興味深く読ませてもらった。ただ、正にLP世代であろう arton さんと異なり、前述の通り感覚的にはLP世代だが、実際にはLP時代とCD時代の両方にまたがる当方の中途半端さを認識もした。
arton さんが真っ先に挙げているループの話は、ルー・リードの究極のゴミアルバム『Metal Machine Music』など採用されている事例は知っていたが、恥ずかしながら大好きなブライアン・イーノの『Here Come the Warm Jets』にもそういう仕掛けがしてあったことは知らなかった。
またサイズの問題も確かにある。これは正に一長一短の典型で、コンパクトになったことを実利的にありがたく思った人は多いはずだが、例えばロキシー・ミュージックの『Avalon』のジャケットをCDで見ても、美しさにため息をもらすなんてことはないだろうし、何より「ジャケ買い」という言葉の意味も以前と今では少し違うのではないか。
しかし、実を言うと arton さんの文章を読んで一番面白く思ったのは、ジョー・ジャクソンの『Night and Day』を聴く順序についての考えが、arton さんとワタシでまったく反対なことであった。そしてそうした違いが出るのも、A面、B面という区切りがあるからこそなのであるが。
ここで横道にそれるが、ジョー・ジャクソンの『Night and Day』はワタシもとても好きなアルバムで、しかも最近では彼の名前にスポットライトがあたることも少ないので、このアルバムについて長々と書かせてもらおう。
映画『メリーに首ったけ』でもうまく使われていた "Is She Really Going Out With Him?" でデビューした当時はソリッドなポップロックで売っていたジョー・ジャクソンだが、その後悪名高いへそ曲がりぶりを発揮する。唐突にアルバム全編をレゲエにしたり、はたまた40年代のジャンプミュージックにしちゃったり、後にも新作アルバムをライブで一発録りしたり、オーケストラと共演してインストアルバムを作ったりと振幅の激しい作風を見せたわけだが、『Night and Day』は時代的背景とジョー・ジャクソンの資質がうまく合致し、良質なポップアルバムの結実している稀有なアルバムである。何年か前にソニーのCMにも使われた "Steppin' Out" というヒット曲を生んだし、本作とその次の見事な真似ジャケとして有名な(笑)『Body and Soul』が作品的、商業的に最も成功したアルバムだろう。
今『Night and Day』を聴いて新鮮なのは、ギターがまったく使われてないこと。これは当時の彼のロックへの嫌悪感が反映されたものだろうが、80年代前半というのは、それでアルバムを作るのが許された時代であった。A面に見え隠れするテクノポップ的味付けもこの時代ならではか。
シンプルだが洒落たジャケット、ギターがない分多用されるパーカッション、そしてアップテンポでパーカッシブな曲が並ぶナイトサイドと、バラードが多いデイサイドという一見逆のような構成は、いずれも彼が当時移住したニューヨークという大都市とそこでの生活観を反映したものである。
で、ワタシはこのアルバムを聴く場合、"Another World" 以外から始まることなど考えられない。この曲は、アイロニーが強調される彼の曲では珍しくストレートに決意を歌いあげるもので、音自体も確信に満ちとても力強い。つまりは、この曲は彼自身の新生活についてのマニフェストなのである。それが始まりで、ラストは怒涛のバラード "Slow Song" しかないっしょ……というように arton さんとまったく正反対なわけだが、ワタシがそう思うのは、何だかんだいってこのアルバムをリアルタイムに(つまりアナログ盤で)聴いたのではなく、はじめからCDに収録された曲順で聴いているからというのが一番大きい、というのも認めないといけませんな。
arton さんは「誤読の余地がないってのもつまらない」という言葉でまとめられているが、リスナーがアルバムを聴いて想像を膨らましたりする「遊び」や「余裕」のようなものがないと楽しくないというのはまったくその通りだと思う。arton さんの文章を読んで何より楽しかったのは、一つのアルバムを聴き込んでのめりこみ、あれこれと勝手に想像したりした、要は自分が現在よりも遥かに濃く音楽を聴いていた頃を思い出したからである。
しかし、こうやって突っ込んで考えると、自分にとっての「A面とB面あってのアルバム」という感覚も怪しいものに思えてくる。
ただ一つ補足しておくと、当方が一番真剣に音に触れていた中学、高校時代は、CDを買うのより借りるのが多かったというのも大きい。当時はMDはなかったからカセットテープにダビングすることになり、自然と二面に分かれる。たとえ新譜のCDを借りても(当時は洋楽も可能だった)、例えば60分テープにダビングすることで、聴く際には自然と中間点で息抜きができた。
突き詰めれば、どの程度の時間まで集中して音を聴けるかという時間感覚の話になるのではないか。当方の場合、一番得意なのが70年代ロックであるため、アルバム全体でも40分以上50分以内というのが最もしっくりくる。それより演奏時間が長くなると(特に60分を越えると)よほど内容が充実したアルバムでないと、疲れを覚えることもしばしば。
以前から疑問に思っていたことに、アナログ盤の演奏時間というのはどのようにして決められたのかというのがある。CDの場合、74分なのはベートーベンの第九に合わせ……という話が有名で、LPについても調べれば分かるのだろうが、ワタシが知りたいのは、人間が一まとめで音楽を聴くのに適した時間との関係である。またその時間感覚は世代によってどの程度変わるのかということ。このあたりの研究をしている人っていないのかな。
そこで最初に書いた「アルバムという単位」の解体の話に戻る。
ワタシなど70年代ロック的な、「アルバム一枚が一つの世界を成す独立した作品」という古臭い感覚を引きずっているため、アルバムという単位を当然のように準拠枠にしてしまうわけだが、今の若い子(うげっ)にその感覚は薄いだろう。またLPの40分台からCDの70分台になったことで、リスナーの音に対する耐久時間が延びたということはないだろう。むしろ逆で、これは曲単位の扱いが容易なデジタル化の功罪の一つだろうが、それに文句を言っても仕方がない。一方で貧乏症的にやたらとディスクに曲を突っ込みたがるレコード会社も、どうせ商品に力を行使してコントロールするなら、もう少しリスナーの時間感覚を計算したプロダクションというのを考えたらどうだと思うのだが。
来年は日本でも遂に iTunes Music Store が利用できるようになる(はずだ)。iPod + iTMS の時代になり、その曲単位でまとめられ、シャッフルされて聴かれるという流れは進みこそすれ戻ることはないだろう。そうなったときアルバムという単位は意味をなくすのだろうか。
半々だろうと思う。ここまで書いておいてなんだが、少なくともアルバムというフォーマットがなくなるということはすぐにはないだろう。少し前に宴席で音楽配信メモの津田さんに伺ったときもそういう答えだったが、何よりミュージシャン側の現実的な制作体制や予算的都合などを考えれば、すべてが曲単位に解体されるわけはないだろう。
ワタシ自身がどういう年代でというのは上に繰り返し書いた通りだが、ワタシより下の物心ついたときからCD(+MD)だったという世代をも凌駕する、物心ついたときからネット上の音楽配信が主流という世代もいずれ出てくる。その世代のアルバム観、時間感覚がどうなるというのは興味があるところではある。
まあ、フォーマットがどうなろうが、ワタシはこれからもできるだけ自分を楽しませる音を求めるだけなのだけど。