長いお別れ


 夢というのは不思議なもので、その中では現実では起こり得ないことが起こり、現実では為し得ないことをやってしまう。大抵の場合、覚醒し見た夢を反芻してみても、回転を始めたばかりの頭脳では合点のいかないことばかり、それに第一我々は現実に立ち向かわなければならず、いつまでも夢にかかわずらっているわけにもいかない。みたばかりの夢にも注意を振り向けることは少なく、そして、自然と忘れてしまう。

 精神分析というのは精神医学のごく一部に過ぎないが、ともかく精神分析の発達により夢というものの意味付けが市民権を得たが、それ以上に夢が持つ逆立性が、実は現実というものの理解を助けているような気が僕にはする。

 まず僕が見る夢について書いてみる。

 僕の場合、定期的に何度も見る夢のパターンはない。しかし、傾向はあるはずで、強いて言えば、追いかけるというより追いかけられる夢の方が多いようだ。これは僕の心性を現してるといえるだろう、残念ながら。

 そして、もう一つ傾向があるとするならば、仲たがいしている友人の夢をたまに見ることか。夢の中ではその友人と僕は仲良くやっている。覚醒した後もいい気分である。しかし、現実は何も変わってはいない。当然ながらそれに気付かない訳はなく、そのせいでしばらくの間落ち込んでしまう。


 Yは、彼が僕がいた小学校に三年生のとき転校して以来の僕の友人だった。当時、彼と僕は野球で結ばれていた。それは、彼が5番ピッチャー、僕が7番ファーストで少年軟式野球の全国大会に出場したことに結実する(信じられないことに僕はレギュラーだったのだ。現在は視力と筋力が落ちて110kmの球もろくに打てなくなってしまったが)。

 しかし、野球でのつながり以上に重視すべきは、彼が僕に及ぼした影響である。及ぼしたというより彼が僕の人間性のある部分を引き出したと書くのが正確かもしれない。

 人はその生涯の中で、何人かその人の方向性を変えてしまうような他者に出会うのだが、Yは僕にとってそうした最初のメフィストフェレスであった。

 同じ学校に進んだため、彼との友人関係は高校まで続いたが、高校二年生あたりでおかしくなり、三年生のとき不愉快でつまらない出来事とともに決定的に袂を分かつことになってしまった。

 そうして前述のパターンで、彼が夢に出てくるようになったのは高校を卒業するあたりからか。自分の願望が露骨に表れているだけに、やるせなかった。当然のこと彼とは口をきく機会はない。大学に入っても、忘れたころにYの夢を見た。


 大学二年生の夏休み、帰省していた僕は、昼間から近所の酒屋に出向いた。その酒屋は僕の同級生であるM嬢の父親の店で、酒そのものを買うより、そこのおじさん(もしくはおばさん、つまりM嬢の父母)に挨拶しに行くのが主な目的だった。もしかしたら、筆者の母親から彼らへのお届けものを託されていたかもしれない。僕は店番をしていたM嬢のお父さんと雑談をしていると、後ろからケツをポンと叩かれた。振り向くとYだった。

 Yはその酒屋で長期休暇の間アルバイトをしていたのだ。僕はそれを前から知っていた。しかし、彼と正対したときに驚きから考えると、酒屋で彼と会えることを期待も予想もしていなかったのだろう。

 彼と二三言葉を交わし、僕は店を出た。会話の中身は他愛ないものだった。しかし、僕は満ち足りた表情をしていただろう。冷静に考えれば、夏の昼下がりの暑さに、彼は僕に対する憎悪を忘れていただけかもしれない。例えそうだとしても、僕は満足だったし、幸せだった。


 だがそれからも大分経った今になってとろい僕にもようやく分かるのだが、あれは彼との再会ではなくサヨナラだったのだ。和解ではなく生別だったのだ。僕は彼のことを深く愛していた。その感情の変質ではなく、彼の世界と僕の世界の接点が失われることにより、僕の中でその感情が意味のないものになっていた。Yと僕の人生はもはや交わることはないだろう。

 それはごくごく平凡な出来事で、我々はそうして過ぎ行く日々に何の意義も見出せずにながしていくばかり。

 また彼があのときバイトをしていた酒屋の主人であるM嬢のお父さんは、数年前クモ膜下出血でお亡くなりになった。家族にとっても全く予想外の出来事で、無論僕のとっても同様だ。そうした意味で、あの夏の日の出来事は僕にとって二重のお別れだったことになる。

あなたにお会いしてからちょうど10年
思えば夢のように過ぎてしまった
今わたし達は相容れないそれぞれの道を歩み出しているのですね
もはや永久に交わることのない道を…
(山岸凉子「日出処の天子」より)

 以後、Yが僕の夢に出てくることはなくなった。今でも彼に会いたい気持ちはあるが、もはやお互いの間で共有できるものなど何もないのだろう。その事実をようやく認識できたような気がする。


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初出公開: 1999年08月01日、 最終更新日: 2000年07月06日
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